その土台部分は聖書に示されている。創造主の目的は真の平安を与えるために
「存在不安」の源泉は壊された架け橋
緩やかな失望感ほど真綿で首を絞めるようにきついモノはありませんよね。
自分が生きている意味がわからないと、失望し絶望感に苛まれるのです。
人は天寿を全うするために生かされるのだろうと思っても、生きている充足感が感じられる日はどれだけあるのでしょうか?
充実感の積み重ねで充足感を得て活力を得ていけるとハッピーなのかもしれません。
行為の結果から充実感を味わう習慣がついている人は、事態が悪化するとマイナスのスパイラルに陥ってしまうかもしれません。
それよりも、人は絶えず何かに怯えているのかもしれませんね。
本能的に知っているからこそ、苛まれるのでしょうか?
人はエデンの園で創造主と直接コミュニケーションができていたのですが、それが、人の側の都合でキャンセルされました。
創造主がキャンセルしたのではないのです。つまり、人が自ら「霊的な橋」を壊してしまい、創造主との霊的関係が断絶してしまったのです。
それにも関わらず、創造主は「霊的な橋渡し」の契約を人に対して示しておられるのです。
それは、あたかも父親が子にかける生命保険のようです。
「霊的な回復のための契約」
「契約者は創造主」
「支払いは受肉された御子イエス・キリスト」
「受け取りは人一人一人(個別サインが必要)」
不安の原因は「罪」と指摘されます。
そのように書かれると罪責感に苛まれ、自分では贖えないためにオロオロしてしまうのです。自己正当化したいし、責任回避もしたいのです。だれも、それを背負いたくないのです。
しかし、その保険も保証もすでに用意されているのですから、それを受け取ればいいだけの話です。
そうすると「罪の恐れ」から解放されます。
人が背負えない重荷を「御子イエス・キリスト」が背負って十字架上で贖って下さったからです。
すでに贖われたものを思い出しては悲しむのは、完済している借金を思い出して悲しんでいるのと同じようなことをしているのです。
(C)DaviBlackstone2012
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