不安・恐れにとりつかれる
人間は、アダムがエデンの園を追放された後、土を耕し、出産の苦しみに耐えて、失意の中を生きてきたのでしょう。
メシアの出現までは。
しかし、主イエス・キリストをメシアと信じていない人は、未だ失意の中にあり、まだ平安を実感できていないのです。ユダヤ人の女性の中には、私がメシアの母になるかもしれないという希望さえあると聞きます。
創造主との絆が切れていることが、最大の要因でしょうね。人間が、たった一つの約束を破棄してしまったのですからね。そうしたら「…必ず死ぬ…」と。
自分が大切だと思っている相手との通い合うモノが確認できなければ不安になりますからね。当然です。でも、大切なポイントがあるのです。
「子等はともに血肉を具(そな)うれば、主もまた同じく之を具(そな)え給いしなり。これは死の権力(ちから)をもつもの、即ち悪魔を死によりて亡ぼし、かつ死の懼れによりて生涯奴隷となりし者どもを解放(ときはな)ち給わんためなり。(バイブル ヘブル2:14-15)」
このように書かれています。
「死の権力(ちから)」を持つ者が悪魔であること、「死の懼れによりて生涯奴隷となりし者」とあるように、悪魔が懼れをもって支配するこの世の様子が記されているのです。
人は、よりよい人生を一日でも長生きしたいと考えるのは自然な事で、私もそのように考えています。ところが、肉体的には致死率100%であり、天寿は人にはわからないのです。「よりよく生きたい」と考えるより「まだ、死にたくない」と考える比率が高くなると「死の懼れ」に支配される可能性が高くなると考えています。
信仰者にとって肉体的死は、肉体・この世からの解放であり、霊的状態は「イエスはメシアである(イエスが私の罪を背負って十字架であがなって下さり、死の懼れから解放して下さった)」と受け入れた時から永遠の生命を生きているのです。
おそれから、解放されたマインドで今日も感謝して歩みたいです。
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