信仰と行為
「わが兄弟よ、人みずから信仰ありと言いて、もし行為なくば何の益かあらん、斯かる信仰は彼を救い得んや。(ヤコブ2:14)」
信仰と行為の関係で、よく引用される箇所であるが、大切なところは、信仰と行為のバランスだと考えています。信仰は「信じて仰ぎ見る」ことですし、行為は「自分から発する」ことなので、各の信仰・信念に基づいているので、人によって大きな差が生じるということなのですね。
自分がよかれと思ってやったつもりが、周囲には好意的に受け入れられなかった。という経験はあると思います。自分の思いと周囲の実際の見え方が違うからなのでしょうね。
自分には思い込みがあり、「何々はこうあらねばならない」などという気持ちが強ければ強いほど、そのような事が増えるようにも感じています。
たしかに、理想と現実にはギャップがあり、理想に燃える人には、そうはならない現実に歯がゆい思いを強くするのでしょうね。
でも、順序からすると、まず現実を受け入れる事が必要のようですね。現実と自分の距離感をはかり、理想に向けてどのように自分が関わって行けるのか、そして、何よりも関係者の受け入れられる範囲がどれくらいあるのかが大切な要素ですよね。
それには、自分の行動を客観視してみる必要がありそうです。
自分が理想に向かってもがいても事態が良くならないと感じるなら、グルグルスパイラルにハマっている可能性が高いです。もし、自分がハマっていると感じたならなら、グルグルスパイラルから抜け出したいですね。
思い込みの修正も大切で、自分の信仰と求められている使命を確認更新する必要もあるのですね。
周りから見れば、首をかしげる行動であっても、創造主の視点からは、深い意味がある事かもしれません。それぞれの評価は、いずれなされることでしょうね。
「人もし此の基の上に金・銀・宝石・木・草・藁をもって建てなば、おのおののわざは顕るべし。かの日これを明らかにせん、かの日は火をもって顕れ、その火おのおののわざの如何を験すべければなり。その建つる所のわざ、もし保たば値を得、もし其のわざ焼けなば損すべし。然れど己は火より脱れ出づる如くして救われん。(コリント前書3:11-15)」
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません