ああ勘違い
『ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。コリント第一3:4-9』
人間は群れるタイプと孤高のタイプなど様々ですね。
コミュニティを形成するとなると、いかにうまく群れるかを考える人が美味しいところを持って行きそうです。
ここでは、パウロに着くかアポロに着くかを肉眼的に考えている人たちに対して、パウロの投げかけたテーマです。
パウロでも、アポロでも、神に立てられた器(メッセンジャー&指導者)であって、本質は神との関係をどのように確立するかであるということですね。
植えるとは、開拓伝道で導くと言うことであり、水を注ぐとは牧会者として霊的成長を助けることを指しています。
植物の例えは、種を蒔いて、水を与えて、栄養が必要なら与えて育み、花を愛で、果実を喜ぶというステップが聞いている側にとってはイメージしやすいからなのでしょうね。
手柄は、群れの指導者が賞賛されるのではなく、それぞれの働きを通じて、祝福の源泉である一人一人を成長させた神こそが、賞賛されるのが本分なのだということですね。
指導者の役割や働きに対する報いも考慮される要素です。
しかし、創造主である神よりも崇められることのないように気をつけるコトが肝要なのですね。
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