信仰者の身の置き方

イエス・キリスト,十字架

『十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った。(ルカ23:39-48【新改訳2017】)』

この日の十字架は三つで、その真ん中に、イエス・キリストが架けられた。

その両側には、「悪人」「犯罪人」「強盗」など翻訳によって様々に表現されている。

一説によれば、政治犯ではなかったかと言われている。

イエス・キリストとの違いは、法を犯したかどうかの違いだった。

犯罪人とされる彼らには、十字架刑が自分のしたことの報いだと自覚していた。

一人は、「イエス・キリストに神なら、自分も私も助けろ」と迫り、もう一人は、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言った。

これに対して、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と応えられた。

信仰者の多くは、「パラダイスにいる」と言われた後者に自分を重ねる傾向が高いようだ。

しかし、信仰者もキリストを着た「罪人」に過ぎない存在なので「自分の私も助けろ」といった側ではないだろうかと謙遜に構える人もいる。

肉体に宿る自分はまさに前者であるのだが、「神殿の幕が真ん中から避裂かれた」この出来事によって、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」という立場に変えられていることを感謝する他ないですね。