折伏という宣教vs解放という実感

折伏(しゃくぶく)というのは、

1 仏語。悪人・悪法を打ち砕き、迷いを覚まさせること。摂受(しょうじゅ)と共に衆生を仏法に導く手段。「邪教の徒を折伏する」
2 転じて、執拗に説得して相手を自分の意見・方針に従わせること。「対立する相手を折伏する」
https://kotobank.jp/word/%E6%8A%98%E4%BC%8F-75851

別の言い方をすると、相手を説き伏せて、意志を変えさせるということでしょうか?

熱心に勧誘している宗教団体は、このことばをよく用います。

ただ、違う言葉の宣教を使っても、説得以上のアプローチで、ガンガン活動しているキリスト教団体もあります。

熱心なのは良いのですが、創造主である神が与えた自由意志を超えて行うのは筋が違うようにも感じています。

本来、宣教とは、「旧契約に預言されていたメシアであるイエス・キリストが、十字架で死なれたこと、墓に葬られたこと、三日目に復活されたことを自分のためだと信じると罪が贖われ、永遠の幸福に生きることができる。」というモノです。

これを伝えるのが、宣教者の役割なのですね。

ここから先は、聞いた人が自由意志で決定するのですね。

伝えた人の生き様も参考要素になりますので、丸いモノが丸く伝わるかどうかは未知数ですね。