行いで否定してしまうこと
『ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている人たちの戒めに、心を奪われないようにさせなさい。きよい人たちには、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた不信仰な人たちには、何一つきよいものはなく、その知性も良心も汚れています。彼らは、神を知っていると公言しますが、行いでは否定しています。彼らは忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。(テトス1:14-16)』
「きくのとやるのでは大違い」とも言います。
「神を知っていると公言しますが、行いでは否定しています。」とあるのは、神を知っていると言っても、自称の域を出ていないので、行いでは違う行動をしてしまっているというのです。
以前にも取り上げましたが、人間は、それぞれに信仰があります。
主イエス・キリストの十字架による贖いを信じる信仰もあれば、それを否定する信仰もあります。
本当に、多種多様な信仰があります。
それらは、一人一人の自由意志で選択するもので、強制されるモノではありません。
いずれ、創造主である神の御前で、一人一人の信仰がどうであったかを判定されることでしょうね。
ただ、「自分は○○を信じている」と言っても、信頼関係のない行動をしていないかを顧みることも必要なのでしょうね。
人間には、創造主である神に委ねる部分と、自分自身で努力する必要がある部分がありますから、その調整も大切な要素ですね。
真理に背を向けずに、光に向かい、言行一致した信仰を保っていきたいですね。
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