世の中は乗り合いバスのようなもの 浦河べてる
「あらゆるコミュニティには、排除の論理がまかり通っていると感じる」と耳にすることがあります。
社会は、多様性で満ちているのですが、その縮図は、乗り合いバスではないかという例え方をするケースもあります。
乗り合いバスは、老若男女が乗車して、小さい聞き分けのない子が走り回ったり、靴を脱がずに椅子に上がったり、精神的に不安定な人が叫び出したり、それに反応してパニック症状を発現したり、いわゆる普通の大人には、騒々しい不快感に繋がるノイズを感じてしまう空間ということなのだそうです。
つまり、社会は多様で、色々な人が存在しているのは理解しているのですが、個人個人の許容範囲が異なり、受け容れ難い状況があるという現象ですね。
家庭の中に、乳児や幼児がいれば、それが当たり前で、慣れるというまでは行かないにしても、そういう状況を認識することはできるのです。
しかし、大人だけの家庭ならば、静かな雰囲気があって、当たり前の日常なのです。
普段の環境から、許容範囲がつくられることを考えると、様々な許容範囲を個人個人が抱えているのですね。
泣き叫ぶ子が、赤の他人の子や孫である場合と、自分の子や孫である場合では、許容範囲に違いが出ても不思議ではないのですね。
人間としての器が試されているのですね。
北海道の日高地方に浦河というところがあって、ソーシャルワーカーの向谷地さんや精神科医の川村医師やとある教会の連携で、浦河べてるという精神障害者のコミュニティーができて、ワールドワイドな知名度になっている。
一例では、日高昆布を拾って乾燥させては、パック詰めしたりして販売して、今や年商は億超えというミラクルな集団なのです。
「できるだけ労働時間は短く」「調子がよくない時には休める」など、働き方改革の最先端のような理想郷のようにも映ります。
一口に精神障害といっても、多様ですから、誰々は、これはできるけれど、これはできない、とかそれぞれの得手不得手をカバーしながら、成り立っているようです。
むしろ、できないことよりも、自分ができるコトにフォーカスしている点が良いのかも知れませんね。
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