見えるチカラ 見えないチカラ

トゥルニエの指摘
われわれの(信仰、あるいは宗教心の)ルーツを再び見出すためには、金持ちとか、学者とか、権力者ではなく、貧しい人たち、「ヤーウェの貧しい人々」のところに行かなければならない。(中略)神の貧しい人とは、力に対しても、その魅力に対しても自由であり、力を当てにしない人である。すなわち自分を当てにせず、ひたすら神にのみ信頼して生きる人を言う。

金持ち、学者(学歴)、権力者などは、この世に誇示できる言わば「見えるチカラ」を持つ人々のことですね。

一方、「見えないチカラ」を持つ人とは、『力に対しても、その魅力に対しても自由であり、力を当てにしない人である。すなわち自分を当てにせず、ひたすら神にのみ信頼して生きる人』のことを指しているのですね。

ただ、突き詰めていけば、そうなるのであって、チャンスがあれば、学歴を得ることも、キャリアを積むことも、経済的に豊かになることも悪なのではないと筆者は考えています。

かつて、サウロだったパウロも次のように記しています。

『それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:8-11新改訳2017)』

『私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。』の部分は、究極的な比較であって、イエスを知ることの素晴らしさを際立たせるために記されたと理解しています。それは、
『天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。(マタイ13:44新改訳2017)』

とあるように、すべてに勝る宝物として位置づけなのですね。

パウロは、熱心な迫害者だった時の知力や体験をすべて用いた熱心な伝道者として生涯を過ごしたのですね。

信仰者は、肉眼では「見えないチカラ」によって、日々を歩むことができるのですね。

(参考文献:暴力と人間p58工藤信夫著)