愛されたのはありのままの未完成な私

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10新改訳2017)』

「ありのままの私」は、いつかどこかで完成される完璧な私ではありません。

「ありのまま」とは「そのまま」ですから、良くも悪くもゴツゴツとしたまるで原石のような私のことを指しているのですね。

人間は、完璧に見える人はいますが、本当の所、完璧な人はいません。

世紀の天才と言われたレオナルド・ダ・ビンチのように多才と言われる人もいますが、平々凡々と言われる人もいて、不得手なことが多い人もいますね。

「天は二物を与えず」などとも言いますが、他人を羨んでみれば、多才に見えるコトもありますね。

でも、それを創造主である神に対して、「不公平だ!!!」と抗議してみても空しさが募るだけかも。

大切なのは、創造主である神は、全人類(一人の例外なく)に対して、「愛」を示されたということです。

創造主である神は、人への評価を、才能や外見でするのではないのです。

自分自身で、デコボコだなあと感じていても、そのデコボコな自分をありのまま愛してくださっているのですね。