救いの順序

『イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。(ルカ9:23-24新改訳2017)』

人間にとっての救われるというイメージと、創造主である神のイメージには相当な開きがあるのかもしれません。

肉体的生命に生かされている人間には、肉体の考え方しか出来ませんから、致し方ないのですね。

しかし、現実は、肉体に宿る人間は致死率100%で、遠くない将来に肉体を脱いで引っ越さなければならないことが確定しているのです。

一方、創造主である神の救いを受け入れた信仰者は、言わば、ハイブリッド状態にされるのです。肉体に生きながら、聖霊の宮として霊に生きるという状態にされるのです。

このためには、肉体を覆うためにキリストの衣(ガウン)を纏う必要がでてくるのです。

肉体的生命を絶対視すれば、せっかく用意された衣(ガウン)を着る事を躊躇します。これでは、救われたことにはなりません。

この順序こそ大切なのですね。そのためには、肉体的生命の及ばないところを認める所からスタートですから、プライドや猜疑心が邪魔して、難しくしてしまうのですね。

救いは、用意された衣(ガウン)を感謝して着る所からはじまるのですね。

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Posted by dblacks