キリストと共に葬られた
『私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。(ロマ6:4-5)』
「自分は十字架でキリストと共に死に葬られ、共に復活した」と考えるとスッキリできるのですが、ナカナカそのようには考えられません。
多くの人は、「自分は十字架でキリストと共にはりつけになっている罪人」と考えている人も多くいるのでしょうね。十字架の苦しみは共有できても、復活の解放には遠い印象になります。
肉体的生命で生かされているので死んではいないのですから、死んで葬られて復活するとイメージすることは難しいですね。
イエス・キリストをメシアと信じる信仰者は、肉体的生命に生きながらも、復活のイエス・キリストと共に霊的生命に生きているのですね。
しかし、これを理解して、受け入れていくのが信仰者の生涯の歩みなのかも知れませんね。
パウロは、肉体的生命を「外なる人」とも表現しています。年を重ねると、外なる人は衰えますね。この衰えていく肉体的生命にしがみついて、これを絶対的に頼るか否かは、大切なポイントですね。
遠くない将来に、肉体的死を迎える限りがある肉体的生命を頼みとするよりも、永遠に繋がる復活のイエス・キリストと共に生きるという意識を持つことができれば、肉体的生命に生きながら、永遠の幸福マインドで歩むことができるのですね。
肉体的生命の課題を永遠の幸福マインドパワーによってクリアしていく人生が歩めるのですね。
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