義と認められること
『これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。(ヤコブ2:24新共同訳)』
「信仰は、信じているだけではダメで、行動しなければいけない。」とか、「信仰は恵みなのだから信じるだけでいいのだ」などとの論争は、1世紀にはじまり、今日まで続いています。
「信仰が実体となる」というポリシーで活動している集団があります。これは、信仰つまり、神の愛を身体からにじみ出させるというイメージでしょうか?
信仰を持ち、創造主である神の愛に満たされて、溢れ出たモノが周囲に伝わるということは、信仰を消化し、信仰を熟成させるというプロセスを通って、義となって現れると理解すると腑に落ちるのではないでしょうか。
人間は、創造主である神がメシアであるイエス・キリストをこの世に遣わし、十字架の贖いで、死に葬られ三日目に復活することによって、永遠の生命を得られるという確証という恵みを信じることができます。これを信仰といいます。
これを備えて下さったのは、100%創造主である神の愛(アガペー)であり、人間が何かを努力して得られるものではないからです。
この信仰を持ち、愛に根ざしてエネルギーを得るときに、それに満たされて、自然体に振る舞うだけでも、周囲は「何かが違うなあ」と感じるようになるのですね。
良いことをしようとして空回りしてしまうこともあるでしょうけれど、愛に根ざしてエネルギーを得続けると何かの変化は出てくるでしょうね。
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