恵みを与えようとしている御方 イザヤ30:18
『それゆえ【主】は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。【主】が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。(イザヤ30:18新改訳2017)』
「どこかであなたを待っている」存在は、人の意識に影響を与えるか考えてみます。
待っていてくれるのだから、できるだけ早く帰らないといけないと考える人が多数派だと思いますが、一方あまり気にもかけない人もいるようです。
また、待っている人を喜ばすために、何かお土産を用意するとか、サプライズを仕掛けるなどのサービス精神旺盛な人もいますね。
このフレーズでは、「【主】は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、」とありますから、ただ待っているだけで無く、「恵み」を用意して「待っている」と記されています。
これは、特別なご馳走などを超えた想像できないほどの状態では無いでしょうか?
出かけている私が、外で何をしていようと、帰れば「恵みを与えようとして待って」いる存在があるというのです。
「恵みが伴った居場所」が、それぞれに備えられていると理解した方が分かりやすいでしょうか。
「義の神」であるというと、正しくない自分は裁かれるというイメージが先に立ってしまうのが一般的ですが、創造主である神は、創造した全人類の一人一人に対して、それを備えて下さっているのですね。
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