独りの御子を ヨハネ3:16 リ187
『独りの御子を賜いしほどに 神は世人を慈しみ賜う
かかる恵みの父をも知らで 長く闇路に我は迷えり。
(リバイバル聖歌187番 一節)』
創造主である神と被造物である人間では、視点も視野も違うのは当然だとは思います。
被造物からの視点では、「なぜ人を救済が必要な中途半端な立ち位置に置いたのか?」などの疑問も残ります。
聖書を通じて示されていることに焦点を合わせると、自由意志を与えられた人間が、自らの意志で、創造主である神との通信を絶ちきり、気がつけば、闇路を歩いて途方に暮れていたと言うことになります。
しかし、創造主である神は、その通信を回復できる方法を完璧に備えて下さった。ということになりますね。
神に似せて命を与えられた人間に自由意志を与えられていること、そして、神との通信を回復するか否かは、一人一人の自由意志に任されていることをどのように受け止めるかも神との距離感に影響を与えますね。
これは、スカッと解決できるテーマではないように思う人も多いのが現状です。
誰にでも機会を与え、「信仰による解決」しかないように設定されているのですね。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16新改訳2017)』
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