求められるきよさとは? 出エジプト19:10-15
『主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、民に命じて、「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」と言った。(出エジプト19:10-15新共同訳)』
「聖別」というテーマです。
創造主である神が、シナイ山に三日後に顕現するので、そのための準備が必要になりました。
聖域という言葉は、今の時代も多方面で用いられます。
創造主である神が顕現される場所が聖域であるので、その境目を明確にすることなどを求められました。
仏教などでは、結界という言葉を使いますね。
どうして、聖域を設けて、きよくあるための備えが必要だったのでしょうか?
それは、アダム以来、引き継いだ人間にはどうすることもできない性質(罪)が影響していたのです。
そのままの状態で、創造主である神の顕現に触れると、肉体的死を迎えるので、そうならないように、聖域を設けて、近づかないように警告したのです。
これは、やがての時に、本当のきよさを保てる救いの保証が与えられることへのステップでもあります。
そのために、アブラハムを選んで、イサク、ヤコブ、そしてその子へと世代が変わり、出エジプトをしたイスラエルの民を、創造主である神を礼拝する民として、選び育てる必要があったのです。
それは、やがて、ダビデを経て、メシアであるイエス・キリストの肉体の母マリヤへと繋がる血筋を確保するためでもありました。
この後に、結ばれるシナイ契約は、非常に重要なステップなのです。
そのために、聖域の確保と、内面のきよさを表す外面のきよさまで求められました。
モーセは、その創造主である神の命令を民に伝え、イスラエルの民は実行をしたのです。
選民として、他の民族からは分離された礼拝する民は、どのような歩みをすることになるのでしょうか?
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