律法とめぐみ 出エジプト19章 ヘブル12:18-22
『あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、(ヘブル12:18-22新共同訳)』
この箇所は、出エジプト19章からの引用です。
律法授与を目前にして、イスラエルの民が、創造主である神の顕現をそばで感じた光景を巧みに描写しているのです。
神のそばにいること、または、神の御前に出ることが、人間にとってどれほど恐れ多いかと言うことが、存分に伝わってきます。
アダム以降の人間は、神の御前に出られないような状態だったので、その存在を感じたときに、「モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言った」と記されているのです。
しかし、創造主である神はイスラエルを契約の民として選び、メシアであるイエス・キリストへの系図を確実なモノとして、究極的には、人間に、全人類に永遠の幸福を備えるというのが、基本プランだったのです。
この場面を見ると、結界を越えると死が待っているという、さばきのイメージです。
でも、歴史をふり返ってみると、ここから永遠の扉が、少しずつ開いていくのです。
それらを知る由も無いイスラエルの民は、ただ震えるしか為す術がなかったでしょうね。
今の時代でも法律と聞くと裁判を連想しますから、当時の人々にとっては、どのようにかんじられたのでしょうか?
もし、神の御前に震えずにいることができる方法がわかっていれば、恐いではなくて、楽しくワクワクするコトでしょう。この感覚は、メシアであるイエス・キリストが十字架の贖いを完成し、復活された後の時代(めぐみの時代)の私たちが実感をもって体験できることです。
ただ、いつの時代も共通しているのは、「神への畏怖の念」を厳粛に受け止めなければならない点です。
今日のキリスト教を看板に掲げている教会でも、律法主義が蔓延り、メグミによる解放ではなく、律法主義による恐怖政治が行われている所もありますから、注意が必要ですね。
律法とめぐみは両立できるのです。そのように、メシアであるイエス・キリストが道筋を整えて下さったのですからね。
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