律法は神が聖であるコトを示す 出エジプト20:1-17 レビ11:45
『わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。(レビ11:45新共同訳)』
創造主である神は、まさに「聖」である存在です。
イスラエルの民に律法授与した目的は、神が「聖」であることを示すためでした。
また、もう一つの目的は、「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」だったのです。この要素こそ、モーセの律法の中心でした。
この時のイスラエルの民は、創造主である神の性質には、全くの無知でしたから、本当の神の格を知るための教育が必要だったのです。
聖さは、自分が「聖」とは、ほど遠いと感じている人には、近寄りがたいものです。
どのようにすれば、「聖」に入り、留まれるのかを示されているのですね。
ここで、示されているのが「十戒」です。さらに、603もの律法が与えられているのです。
トータルすると613あるのだそうです。
メシアであるイエス・キリストがこの地上で肉体に宿った時の記述が、新約聖書の福音書に記されています。
その中のマタイ伝5章から7章に「山上の垂訓」がありますが、これは、メシアであるイエス・キリストがモーセの律法解釈をしているのですね。
もちろん、人間にとって、律法は救いになりません。
メシアであるイエス・キリストの十字架による贖いを信じる信仰のみが救いの唯一の条件になるのですね。
律法は、イスラエルの民が創造主である神と共存するために必要不可欠なモノだったのです。
今の時代の信仰者にとっては、イエス・キリストの律法という「黄金律」も与えられていますから、また、別の機会に紹介いたします。
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