見つからないのは愛の表現 太宰治
『愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。 太宰治』
人生は愛に包まれているはずなのに、その愛を実感できない人が多いですね。
それもそのはず、太宰治は、愛の表現と作法が見つからないと考えていたようです。
「アイノカタチ(MISIA)」と言う曲があります。
その歌詞は、自分の胸の隙間をうめるピッタリとした、自分に合う愛のピースを捜しているように聞こえるので、多くの人の共感を得ているのでしょうね。
確かに、「愛はある」のですが、「どれが自分のためなのか?」わからないということでしょうね。
相手を思いやる秘めた愛は、自分だけの宝物ですから、影響範囲は最低限です。
しかし、自分が「相手のために」と考えても、相手が受け容れ難いような表現や作法では、困惑や迷惑になりかねません。
また、相手の欲求やニーズを満たすことだけが愛でも無いようにも感じます。
たとえ親子のような近しい関係であっても、別人格ですから、適度な距離感が必要です。
また、愛が成立するためには、当事者間で互いの同意が前提条件になりますね。
私がもう一つ大切だと感じているのは、愛を素直に受け取る作法です。
変なプライドや照れが邪魔をして、相手の気持ちをはぐらかしてしまうことがあるとすれば、非常にもったいない話です。
相手と同じ目線、それよりも下で、「有難う」と受け取ってみると、幸福感が倍増することでしょう。
愛に包まれていることを実感していきたいですね。
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