愛の律法の中心「愛」 ロマ13:8-10

イエス・キリスト,十字架の恵み,,隣人愛

『◆隣人愛
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。 (ロマ13:8-10新共同訳)』

キリストの教えは、「神が人を扱うように、人を扱うことを求められている」これが、本質です。

モーセの律法は、「十戒」と言われていますが、第1戒から第4戒は、創造主である神と人との関係について、第5戒から第10戒は、人と人との関係について記されています。

これを十字架になぞらえて説明することがあります。

十字架の縦の木は、垂直的(タテ)な神と人との関係を表し、横の木は、水平的(ヨコ)の人と人の関係を表している。

タテは、「まず、神の国と神の義を求めなさい(マタイ6:33)」であり、ヨコは、「隣人を自分のように愛しなさい(ロマ13:9)」という理解がシンプルにできますね。

「愛」は、表面上の仲良さという薄っぺらいモノではなく、「いのちがけの要素」でもあります。

その究極的なお手本は、メシアであるイエス・キリストの十字架にあります。

人間は、同様にはできないからこそ、唯一の義人であるイエス・キリストの十字架による犠牲が必要でした。

自発的な愛の行動は大切な要素ですが、それを発揮する前に、相手の状況やニーズも考える必要がありますね。

この配慮こそ、愛に根ざした本質的な部分なのだと考えています。

メシアであるイエス・キリストの贖いによって完成した新契約時代は、旧契約時代のモーセの律法に変わり、キリストの律法が適用されています。

これが「愛の律法」であります。

新契約時代の信仰者は、信じた瞬間に、信仰者は神の聖なる宮となり、助け主である聖霊が内住されます。

この聖霊に導かれて、愛の律法を行うことができるのですね。

肉体的生命には、聖なる宮としての部分と、肉体を司る部分が共存しているために、葛藤があったり、愛の律法からかけ離れた行動に出てしまうことがあります。

でも、健全な祈りをもって望むときに良き方向に導かれますから、トライアンドエラーを繰り返し実践していくことが大切なのですね。