本当の唯一の犠牲とは? 1テモテ2:5

『神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。(1テモテ2:5-6新共同訳)』

メシア論のシンプルな説明です。

「イエス・キリスト」と記される時には、「イエスはキリストであり、神の子である」との強調があります。

また、「キリスト・イエス」と記されている時には「神の御子」を強調されています。

つまり、創造主である神(三位一体)の第二位格であるのに、メシアとして世に来られた御方であることを信じることが、メシア論の核心です。

それは、人間の理解を超えた存在「人100%、神100%」なのです。

「人でなければ、罪の贖いとしての生贄として死ねない。神でなければ、人を救えない。」

というのが、論理的な帰結です。

メシアであるイエス・キリストが、肉体にやどり、人として成長しながらも、神としては永遠の昔からいたという両面を兼ね備えています。

イエスの肉体の成長を聖書は記しています。

ある時には、「アブラハムが生まれる前から存在している。」と神性宣言をしたので、石打にあいそうになったことがありました。

それが真実なのですが、周囲を取り巻く、当時の支配層には、許しがたい「冒涜罪」との誹りをうけたのです。

また、ご自身は肉体の疲れを覚えながら、人を癒やしました。

旅の疲れで井戸の日陰で休憩したときもありましたが、「重荷を負っている人は来なさい。私が休ませてあげよう。」とも言っています。

自分自身は、空腹になりながら、「私は命のパン」だと言われました。

また、のどの乾きを覚えながら、魂の乾きを癒しました。

肉体霊的な乾きを十字架上で「私は乾く」と表現しながら、「誰でも乾いているなら、来て飲みなさい。いける水の川が流れ出る。」と言われました。

イエスは、死の現実を前に涙を流され、「ラザロよ出てきなさい。」と死に打ち勝つチカラを見せ、「エリエリ・レマ・サバクタニ(どうして私を見捨てたのですか?)」と絶望の叫びを上げた十字架上で、悪人の一人に「あなたは私とともにパラダイスにいる」と言われました。

その御方こそ、「ユダヤ人弁護士イエス・キリスト」で、私の弁護人でもあります。

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Posted by dblacks