白髪は光栄の冠を考える 箴言16:31

『白髪は栄えの冠。それは正義の道に見出される。(箴言16:31新改訳2017)』

髪の毛があるから、白髪を嘆くことができるのです。

今の時代は、簡単に髪の色を変えられるモノが身近にたくさんあります。

ナチュラル派は、白髪を一切気にしないという考え方で、着色はしないという人もいます。

また、自分を鼓舞するように、カラフルな髪の色にチャレンジする人もいます。

何とかして、以前の黒髪に留まりたいと考えている人がいるようですが、現実的には、白髪を黒に染めるのは非常に難しいのだそうです。

なので、全体的にダークブラウンにしたり、逆転の発想でグレーに染めたりする選択肢を採用するケースが多いようです。

また、体質によっても、可能不可能があるようです。

ここで出てくる「白髪」は、人生の集大成する年齢に到達したという意味で使われています。

白髪を始め、身体的にも老いを感じてきても、泰然自若として、自分の役割を忠実に生きていきたいものです。

どうしても、表面上を取り繕うために、ジタバタして、エネルギーを消費しがちです。それも、若さの内なのでしょうから、全否定されるモノではないと考えています。

でも、自分が歩んできた資産を誰かに引き継ぐという役割もあるのではないでしょうか?

それは、多額の貯金や不動産に限らず、生きてきて得た知恵の類いです。

「正義の道」と記されているのは、信仰者が確信を得て、それを日々の祈りで育んできた積み重ねをも含んでいます。

もしそれが、口先だけで、実体を伴わないなら、それは、白日の下に明らかにされてしまいます。

信仰者のメリットは、創造主である神に愛され、それを実感して自己受容し、他者を受容していくという愛の善循環です。

いくつになっても、年相応の生きがいを感じ、自分の存在価値をわきまえ、神と人の愛を味わい、充足感の中で生きることができます。そうすると、たとえ寝たきりであっても、そこでの役割を果たすコトができます。

そして、愛に包まれて、主の御許に帰ることができるのです。

白髪を嘆くよりも、与えられた栄えの冠と正義を考えていくと、また違う味わいが得られますね。

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Posted by dblacks