摩擦も刺激も程よい加減で
正体不明の感染症の影響で、リモート習慣が広がり、人とのぶつかり合いも減ったと安堵する声と、人と接する機会が減った寂しさを訴える声の両方を耳にするようになりました。
人と人の関わりは、どうしても摩擦が付き物です。
でも、これが全くなくては、刺激も得られません。
自他境界線が、ざらつくような感覚も、この摩擦があってこそです。
人生には、摩擦の恩恵も陰もあるのですね。
あるモノをのせた板を傾けていくと、のせているモノが、滑り出す角度があります。
滑り出した角度を「摩擦角」と呼び、板の上でとまっていられる角度を「安息角」と言います。
いろいろな機械をつくるのに、自然落下を利用する場合には、この角度の把握は必要な情報です。
でも、目に見えない関係であっても、この原理は、存在しているように感じています。
物体が板の上に留まっていられるのは、摩擦があるからです。
それが、グリップ力になっている事実があるのですね。
しかし、摩擦を超えて、縛り付けられているように感じると、別の感情が芽生えてきます。
また、刺激も心地良い範囲を超えた、痛みを伴うような刺激は、不快感でしかありません。
大切なのは、適度な摩擦や刺激なのですね。
毎日の口げんかは、お互いに適度な摩擦であれば良いのですが、食器がUFOのように飛び交い、ケガをするようであれば、何らかの調整が必要になります。
お互いのバランスにも、気をつけたい所です。
どちらかが、一方的にプレッシャーを受け続ける関係は、いつか破綻する可能性があります。
それは、家庭内でのバランスをとるケースもありますし、自分自身や家族が病気になるというケースも考えられます。
日常の適度な摩擦を意識化し、心地良い刺激を味わえているかの確認が大切だと考えています。
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