キリスト教という看板 でも、キリストが不在 黙示録3:19-20 ラオデキヤへの手紙

『19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:19-20 新改訳2017)』

伝道メッセージで、この箇所を多用することがありますが、これは、一義的には心から【主】を閉め出している状態のクリスチャンに対する警鐘です。

ラオデキヤの教会は、裕福な紳士・淑女の集合体だったようですが、その霊的状態に【主】は目を注いでいました。

「叱ったり懲らしめたり」されるうちは、改善の見込みがあると思われているからと考えられるのなら、その改善策についての提案を見ていくことができますね。

状態がどうであるかの確認からです。

そもそも、信仰者は、メシアであるイエス・キリストの十字架の贖いを自分自身に受け入れて救われます。

その時に起きる内面の変化は、「聖霊の内住」です。ペンテコステ以降の信仰者は、信じた瞬間に起きる変化です。

しかし、肉体的生命に宿っていますので、心は二分されています。

「肉的な領域(本能的な欲望…生命維持のための欲求も含まれる)」と「霊的な領域(聖霊の宿る所)」です。

本能的な欲望が最大化すると、霊的な領域はスペースを失います。これは、人間の肉体が有限である一つの現れです。

そうなると、心から「聖霊【主】」を閉め出すような状態になってしまうのですね。

日常的な【主】との交わり(デボーション)によって、心の状態のバランスが整えられていくのが理想です。

それを願っていても、その気持ちとは、裏腹な現象も起きるのが現実ですね。

もし、自分の心から「聖霊【主】」を閉め出していることを感じて、【主】のノックに気づいたなら、心の扉を開けばよいのです。

その様にするだけで、「ともに食事をする」というかつての関係以上になれるというのです。

究極的な勝利者は「メシアであるイエス・キリストの招きに応答して、心に迎え入れる人」です。そこに、「主、共に居ます(インマヌエル)」が到来するのです。

やがての時、「千年王国(メシア的王国)」での到来を前倒しした、「平和」な状況がそこに展開されるのです。

本当の親密な交わりこそ、相互に癒やしをもたらすのですね。

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Posted by dblacks