不登校は身体感覚が変わる前に「三日坊主のうちに」
三日以上続けることができれば、それは、習慣化できるという考え方もあります。
その境目が、「三日」であり、続かないことの代名詞に「三日坊主」が使われています。
言葉の由来 三日坊主の由来は、一人前の僧侶(坊主)になることを志す修行僧が、三日ほどたって脱落してしまう様子から、『三日坊主』といわれるようになったとされています。 僧侶の修業は時に過酷であり、中途半端な気持ちでは続けられません。
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非常にシンプルに考えれば「ヤル」が「ヤラナイ」を上回れば、続けられるのです。
それは、「楽しめる」とか「興味がある」など、「辛さ」を上回る何かを感じられるかどうかにかかっても居ます。
生活は、習慣の塊ですから、生きるためには飽きずに栄養をとりますし、おかしを欠かさないという人も多いでしょうね。スイーツなどは、魅力を通り超えて、魔力に近い習慣性があります。
でも、運動などは、ウオーキングでさえも、長続きしない人が多いのではないでしょうか?
さて、本題です。
長い休みの後は、学校生活に戻るのはだんだん難しくなってきました。
自宅が快適すぎることもあるのかも知れませんが、インターネット環境などにドップリ浸かった生活からの変化は、かなりの忍耐力を必要としているのかも知れないと想像しています。
没頭できる才能は、やがて開花する可能性がありますが、学業をある程度はこなしておく必要もあります。
一番理想論ですが、不登校が三日くらいのうちに、何らかのアプローチができれば、身体感覚が不登校体質を回避できるかも知れないと、諸富祥彦氏は指摘しています。
ただ、これは、よほど好条件のケースだと思います。
諸富祥彦氏が提案しているのは、「不登校予防」の原則です。
この要素として、本人が重要と考えられる他者とのつながりを挙げています。その誰かとのつながりを意識するコトによって、エネルギーを得て動き出せる可能性が出てきます。
その時には難しくても、いつか、そのつながりが生きることもあるのですね。
これは、どのような立場にいる人にも共通の要素を感じます。
つまり、自分を支えてくれる誰かを意識するコトができれば、「孤立感」からは遠のき、エネルギーを得ることができるのです。
「一週間あれば悪い遊びを全部教えてやれる」と嘯いたワルいお兄さん(他人)がいましたが、その悪い遊びが当たり前になれば、元の生活に戻るのは一苦労です。
身体の欲求に応じて、快感を求めれば、いのちの危険領域に近づいてしまいます。その前に、普段から備えが必要なのですね。
参考資料:学校に行けない「からだ」諸富祥彦 著
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