愛されている実感は一生の宝物 愛着障害

「愛」を感じる感覚は、人それぞれで、多種多様です。

それは、母胎にいる時からの影響があるといわれ、乳児の時から3歳児くらいまでの感覚がベースになるようですから、本人にはどうすることもできない範疇です。

しかし、その後の人生において、「愛」の感覚(愛着)を修正可能と考えられています。

最近、特に、「煽り運転」など、社会的に問題視されている事件が取り上げられていて、いつか自分も巻き込まれるのではないかと不安を感じることがあるのではないでしょうか?

でも、その背景には、「愛着障害」という要素が横たわっているという指摘を米澤好史氏はしています。

米澤氏は、愛着について、以下のように定義しています。

①愛着とは「特定の人と結ぶ関係」である。
②「特定の人」とは「親」とは限らない。
③人間同士の絆は気持ちや感情でつながる「情緒的」なものである。
「愛着障害は何歳からでも必ず修復できる 米澤好史著」より引用

つまり、養育者と情緒的な絆を結べていると、ある程度の愛着が満たされていると考えられるというのです。

養育者とは、生物化学的な母や父を意味するのではなく、養育を担当する人であったり、その周辺にいるその人にとって絆を構築できる人が対象になると考えてられています。

近年、ネグレクト(育児放棄)や虐待(肉体的、精神的を含む)が、表面化してきていますが、これは、今の時代だけではなく、かなり古くから行われてきたことが推察できます。

私は、これについては人間の未成熟要素が色濃く関係していると考えています。

「自分は、○○の経験がある。」という主張を過大に受けとめないようにしています。

それは、いくつかのケースに対しての経験値であって、絶対的なものではないと考えた方が現実的だからです。そのケーススタディを活かしていくのが、その後の人生の課題でもあるからです。

その前に、「自分は誰かに愛されている大切な存在」という感覚「愛着」を自覚していることが、人生の基礎になる要素なのですね。

「安全」や「安心」という生存していく上で重要な要素を獲得できていないと、本能的に不安定な状態にならざるを得ないのではないでしょうか?

この要素をベースにして、好奇心を発揮して、未知なる探検に出て行けるはずなのに、それが、できなくて閉じこもってしまったり、不安全開のまま探検に出て、周囲にムダ吠えをしてしまっているという状況が、この世界で繰り広げられているのでしょう。

1歳の頃に、「安全」「安心」な居場所を実感できている人が、圧倒的に多いようですが、自分の場合どうだったのかを考えることも、時には必要なのかも知れませんね。

「あの子が不憫に感じる」というケースに遭遇した時は、絶好のチャンスです。自分の中に、その境遇をキャッチできる要素がある可能性もありますね。

それでも、「自分には安心・安全な居場所がある」という実感がある人は幸せなのですね。

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Posted by dblacks