二人の証人の末路 ヨハネの黙示録11:7-13
『7 二人が証言を終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう。
8 彼らの死体は大きな都の大通りにさらされる。その都は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれ、そこで彼らの主も十字架にかけられたのである。
9 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、その死体を墓に葬ることを許さない。
10 地に住む者たちは、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を交わす。この二人の預言者たちが、地に住む者たちを苦しめたからである。
11 しかし、三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた。
12 二人は、天から大きな声が「ここに上れ」と言うのを聞いた。そして、彼らは雲に包まれて天に上った。彼らの敵たちはそれを見た。
13 そのとき、大きな地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のために七千人が死んだ。残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した。 ヨハネの黙示録11:7-13 新改訳2017』
「二人が証言を終える」と、「底知れぬ所(アブソス)から上って来る獣(反キリスト)」に殺されます。
彼らが使命が与えられているうちは、彼らは死ななかったので、それを全うし「終えた(テレオウ)」ことを表し、神は、敵が彼らを殺すことを許されるのです。
反キリストは、底知れぬ所に一度入っていたのですが、生き返って来たのです(ヨハネの黙示録13:3-4)。
二人の証人の死体は、墓に納めることを許されず、「大きな都(エルサレム)の大通りにさらされる。」と記されています。大きな都は、人間の視点です。かつて、メシアであるイエス・キリストも十字架に架けられました。
「その都は、霊的な理解ではソドム(性的倒錯の罪を持った町)やエジプト(神の民を迫害した国)と呼ばれ、」と記されているのは、エルサレムの堕落の状態を見た神の視点です。
これは、神の敵にとっては、この勝利は画期的で記念すべきものですから、それを告知するため三日半の間さらし者にするのです。「彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を交わす」ほどのパーティーが繰り広げられます。インターネットの環境が発達している状況では、SNSなどで大拡散されることでしょう。
「その死体を墓に葬ることを許さない」ことは、申命記21:22-23に禁止されている行為です。
このことでパーティーを繰り広げているのは、携挙で天に挙げられなかった不信者たちです。自分たちに悔い改めを迫り苦しめていた「二人の証人」が死に、神と証人を恐れなくても良くなったこと、また、反キリストが神であるという認識が共有されたことで、ヨハネの黙示録最高潮の「喜びの瞬間」がやってくるのです。
しかし、「二人の証人」の死が彼らに伝えた真理は死にません。
さらに、「三日半の後」衝撃的なことが起きます。「いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。」つまり、復活するのです。全世界に広がる喜びは、神の力を認識し、恐怖に一転した。
天から大きな声が「ここに上れ」と言い、彼らは雲に包まれて天に上った。この光景を見ていた人たちは人々は、さらに恐怖に襲われることでしょう。二人の証人の復活と昇天は、実にユニークです。第1の復活(黙20章)ではなく、携挙でもない。その間に起きることで、これは、神を信じようとしない「地に住む人々」への「しるし」なのです。
大地震が起き、エルサレムの10分の1が破壊され、7千人が死にます。これは、エルサレムに下る神の裁きです。「残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した。」生存者に信仰に導く畏怖の念を抱かせるためです。「天の神」という言葉は、黙示録に2回出て来ますが(16:11)、「GOD(創造主である神【主】)」や「god(神々)」と表記するように、その差を明確にする必要性もあります。
ここでは、「天の神に栄光を帰した。」は、「獣の礼拝」との対比で語られていて、これが救いに至る信仰の始まりとなるからです。
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