不幸をイメージすれば不幸がよってくる シェイクスピア「オセロ(新潮社)」

『過ぎ去った不幸を嘆くのは、すぐにまた新しい不幸を招くもとだ。 シェイクスピア「オセロ(新潮社)」』

人間の最大の関心事は、「他人の不幸は蜜の味」かも知れません。

他人事だと考えていれば、自分は大丈夫だと考えたいところですが、「不幸」に焦点が合っていることは、やがて、自分にも累が及ぶ懸念を孕んでいるのではないでしょうか?

こんなに「不幸」ばかり続くのは、もう沢山だと嘆く声も聞こえます。

でも、人間的な視点では理解不能で、理不尽に感じても、天的な視点では何らかの意味合いがあるのでしょうね。

自分の「不運」を嘆くのも、同じような傾向になりますね。

例えば、懸賞マニアの人が、しばらく当選から遠のくと、「最近、全然何も良いことがなく楽しくない」という心理状態になるようです。

懸賞さえ期待しない自分からすれば、「当選しないのが当たり前で、当選するのはスゴい事なのだ」と感じますから、そのギャップは大きいですね。

また、車の運転で一例を考えてみたいと思います。

夜の運転は、対向車のヘッドライトに要注意です。初心者の頃、対向車のヘッドライトが気になって、それを直視してしまったことがありました。その途端に目が眩み、必要な確認も難しくなってしまいました。それ以降は、意識的にセンターラインに焦点を合わせるようにしました。それ以来、対向車のヘッドライトの明かりを頼りにできるようになったのです。

どこに、焦点を合わせるかで、安全と危険が隣り合わせになっている現象です。

同じように、冒頭のフレーズは、「不幸」に焦点を合わせていると、次の「不幸」を招いてしまうと指摘しています。

自分と「不幸」の距離のとり方を考えて設定する必要がありますね。

人生の中には、自分にとっての「不幸」がないと言う人は珍しいと思います。

これは、あると考えて、あることの一つと捉えるのはどうでしょうか?

自分にとっての有難い幸せも、また、あるのですね。

まあ、幸の不幸も、表裏一体の存在なのかも知れませんから、物事の一面だけではなく、その反対側も確認する習慣化が、事態を改善する秘訣かも知れませんよ。

ウィリアム・シェイクスピア(英語: William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) – 1616年4月23日[2](グレゴリオ暦5月3日))は、イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、もっとも優れた英文学の作家とも言われている。また彼の残した膨大な著作は、初期近代英語の実態を知るうえでの貴重な言語学的資料ともなっている[3]。

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Posted by dblacks