何を蒔いて何を刈り取るか? 箴言22:8

『8 不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。こうして彼への激しい怒りのむちは終わる。 箴言22:8新改訳2017』

人生には、はじまりがあり、そして、終わりがあります。

でも、人間には、はじまったことは理解できても、どこで終わりが来るのかを知る術はありません。

その中で、何かの種を蒔いて生きているのが人間です。

それは、意識して蒔いている部分と無意識で蒔いている部分がありますね。

どちらかと言えば、無意識で蒔いている部分の影響が、後々に響いてくるように感じています。

どれだけ努力をして、良い人を装おうとしても、限界があります。

地方議会の議席を獲得するために、ボランティア活動に励んだり、あらゆる好感度の種を蒔くという話も聞きます。意識的な好感度作戦が功を奏すると議席獲得という花が咲くのですね。

庭に種を蒔いても、望んだ花が咲くとは限りません。その様な時には、よそのお宅の庭に咲くキレイな花を羨ましく感じるモノですね。

冒頭の箴言は、不正を蒔くと災いを刈り取ると記しています。

不正をしてでも、のし上がりたいという野心家もいますが、そのごく一部は夢を見られるかも知れませんが、大半は、夢に届かないのではないでしょうか?

つまり、不正の種は災いをもたらし、それは、彼への激しいムチ、罰がくだると言うことですね。

それよりも、「愛の種」を蒔く習慣を身につけていきたいです。

好感度のためではなく、人に媚びるためではなく、自分のために、または、大切な誰かのためにしたいです。

愛の花が咲けば、それを見る人が幸せを感じて、誰かに、伝えたくなることでしょう。

さらに、愛の種を蒔く人が増える可能性もありますね。

そうなると、愛の好循環が生まれると考えています。

最初は、一粒、自分のために蒔いてみる。

そこからが始まりなのですね。

自然界を見ていると、美しい花の群落に行き当たることがあります。その様な時に、発芽率などを考えると、どれ程の種が蒔かれているのかな?という興味が出てきます。

創造主である神【主】は、この地球上に、必要な花々を咲かせるために、必要なサイクルを支配しているのだろうと私は考えています。

その自然のサイクルを妨げないように、ほどほどに、キレイな花の種を蒔いていきたいですね。

未分類

Posted by dblacks