平安の園と快楽の園 酒池肉林に気はそぞろになる人間
「伊勢参りは無礼講」などと言われた時代がありました。
お参りするところと、非日常の大人の遊びができる街とは、言わば商売的には、win-winの関係だったようです。
お参りに行くと言えば、行くなと言えば、不信心で罰当たりと反論できるからです。そのように言いながら、目くるめく快楽に、気もそぞろになっていたのでしょうね。
その夢から覚めた現実は、どの様な結末だったのでしょうね。
これは、落語で出てくるストーリーです。
人間は、本能があり、それによって、人生を切り開いています。「欲」は単なる悪ではなく、「意欲」にも繋がるエネルギーを引き出すチカラでもあります。
でも、その「欲」を引き出す誘惑は、ワナの可能性もあります。
酒やギャンブルなど、人間にとっては刺激になる要素です。一番のウイークポイントは、性的な快楽だったりします。案外、淡泊な人も居ますが。
その快楽に引き込まれると、理性を失い、依存的になってしまいます。
クスリの世界も然りです。
覚醒剤や大麻に限らず、刺激に満ちていて、この世の世知辛さを忘れさせてくれるブツは、規制されても後を絶ちません。それは、ニーズがあるからでしょうね。
それらは、人間をダメにする方向性のものです。
現実は、逃避したくなるような状況ですが、それを冷静に見据えて、自分を生きることが大切ですよね。
快楽の園は、ネオン街の竜宮城のように人を誘い込みます。
一方、平安の園とは何でしょうか?
これは、究極的に言えば、新天新地と聖書に記された「天国」です。
かなり、距離を感じる対象かも知れませんね。
でも、ここに至る道(方法)は備えられていて、先取りができるのです。
それは、福音の三要素を受け入れることから始まる信仰が入口です。
天国は、肉体を離れてからの話と考えがちですが、信仰を持った瞬間から、その人自身が永遠の神の宮と繋がるのです。
そこには、本当の平安があるのです。肉体に生きながら、永遠の命に生きることができるのです。
あまりにも、シンプルすぎるので、多くの人は、この入口を見逃してしまうのです。
これは、無代価で提供されている創造主である神【主】からのギフトです。肉体と神の宮の二刀流には、葛藤が付き物ですが、神の宮が聖霊に満たされると平安で居られることを体験できるのです。
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