偽りの証言がもたらすもの 箴言25:18
『25:18 隣人について偽りの証言をする人は、こん棒、剣、また鋭い矢のようだ。 箴言25:18新改訳2017』
事実とは異なる事を吹聴して回る人は、今も昔も変わることなく存在します。
でも、「偽りの証言」とは、それにとどまりません。
つまり、真実を知っていて、黙っていることも、それに繋がることがあるのではないでしょうか?
自分がある役目をやりたくないと考えると、どのような行動に出るのかを考えてみましょう。
誰かに頼み込むのは直接的で、そこには偽りの要素を感じません。
でも、「誰かがやってくれると言っている」という事実を異なる流布をすれば、それは偽りの証言です。
それは、言葉を使った暴力だとこの箴言は諭しているのです。
つまり「こん棒、剣、また鋭い矢」になると言うことです。
実際に、そのような渦に巻き込まれた人もいるでしょう。
私も、その類いの渦中に立たされたことがあります。
人間は弱いものです。
自分にだけは、火の粉が降りかからないようにするためには、どの様な手段でも選んでいられないのだろうと言うことです。
それによって、誰かが困るとか、傷つくとかへの想像力が欠けている時代性も手伝っている可能性もイメージします。
「口から出任せ」などの軽率な発言は慎みたいという教訓です。
何かを発言するときには、できるだけ人を傷つけないように配慮をしたいものです。
人間が創造主である神【主】に向かう態度も考えておく必要があるのではないでしょうか?
それは、今から約2000年前、御子イエス・キリストが来臨されたときのことです。
人間の肉体に宿りながら、人間と同じ生活をして、罪を犯さず、唯一の義人として過ごされたのです。
それゆえ、唯一の全人類の罪を取り除く神の子羊として十字架刑になったのです。
その罪状は、「ユダヤ人の王」でした。
無実の人が、十字架刑に遭うことは、偽の証言があったからです。
でも、【主】はそれを許容されました。不思議な流れですが、見事なまでに、そのフローは完璧です。
人間の罪を背負い取り除くために、旧約聖書に預言されていた通りに、成就されているのです。
それを「【主】の愛」と考えるか? それは、一人一人の態度によって決まるのですね。
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