人間が求めるヒーロー像 使徒の働き1:9-11
『1:9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
1:10 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
1:11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」 使徒の働き1:9-11新改訳2017』
その時代にエルサレム付近にいた人は、イエス・キリストの公生涯の目撃者でした。
また、イエスがベツレヘムで生まれ、ナザレの大工ヨセフとマリアによって、育てられたことも有名でした。
ユダ部族は王の血筋でありながら、こぢんまりした印象があったようです。
イエス・キリストは、創造主である神【主】の第二位格であり、100%神でありながら、人類救済の神の子羊となるために、100%人間として、聖霊によってマリアの胎内に宿り、初臨されました。
それは、民とともに住むためでもありました。
公生涯に入った後、弟子を従え、ご自身の神性を示すために、多くの不思議としるしを行われました。それらは、ビックリ仰天という表現でも足りないほどのインパクトを与えていたのです。
それを迷惑がったのは、祭司や学者たちでした。その噂を耳にした王などの権力者も驚愕したことでしょうね。
利権や権力の座から追い落とされる恐怖心が彼らを襲っていたと言っても過言ではないでしょう。
既得権益者たちは、それを取り上げられる事が最大の関心事です。その相手を、ウソをついてでも、蹴落とそうとするのが、人間の歴史です。そこに、あるのは人間のエゴであり、的外れな「罪」の世界です。
「あなたの信仰があなたを救った」という言い回しが、複数回出てきます。これは、その人の信仰によって奇跡が行われたのです。当然、その人のニーズよりも、神の御心があってのことなのです。奇跡は、イエスの神性を示すため、また、信仰に対する応えとして、与えられたものです。
「人の思いと、神の思いは異なる」と記されているように、それは、天と地以上のギャップがあるようです。
創造主である神【主】のシナリオは、聖書に記されている通りです。つまり、人間イエスがユダヤ人たちの偽りの訴えにより、異邦人であるローマ帝国の十字架刑に処せられ、イエスを磔にした人間の「罪」を神の子羊、完全な犠牲として死に、その贖いを完成させることでした。さらに、墓に葬られ、三日目に復活するというものです。さらに、復活した姿を弟子たちに示し、オリブ山から昇天されたのです。
このシナリオは、人間には、描けないものだと考えています。
しかし、イエス・キリストが地上生涯でたどった足跡は、今日から見ても、旧約時代から見ても、筋の通った、明快な「紅の糸」であり、人間にとって「唯一の希望の光」です。
人間は、奇跡を行う権力者の右か左にいて、その威光を自分のものにしたいという欲望があります。当時の弟子たちもそうでしたし、その母親もそのように考えて、イエスに直訴しています。人情としては、理解できます。
でも、聖書に記された、この人類救済という筋書きは、実に不思議です。
それは、「人間は創造主である神【主】に対する信仰によってのみ救われる」という点にあります。そこには、依怙贔屓(えこひいき)は、一切、無いのです。
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