善について 箴言3:27

『3:27 あなたの手に善を行う力があるとき、受けるべき者にそれを控えてはならない。 箴言3:27新改訳2017』

「善」という漢字の成り立ちについて考えてみます。

『角川新字源 改訂新版』(KADOKAWA)によると「本字は、会意。誩(けい)(多くのことば)と、羊(ひつじ。神にささげるいけにえ)とから成る。神にささげるめでたいことば、ひいて「よい」意を表す。善は、その省略形。」と記されています。

「羊」に関連していて、つまり、それは、犠牲であり、神との関係なのですね。

日頃、何かのお役に立ちたいと考えていても、なかなかその思いは果たせない事があります。

その様な時には、歯痒いやら、情けないやらの感情が渦巻きます。

でも、それは、ボタンの掛け違いなのだと感じるようになりました。

人間の優先順位を考えてみると、自分の事が第一に来るのが健全です。

信仰的には、「神が第一だ」と言われることもあるでしょう。

でも、その神に被造された大切な自分を健全に慈しむという過程が大切だと考えています。

その次に、「自分を愛するように隣人を愛する」というステップがあります。

つまり、自分自身を健全にケアできていないと、「あなたの手に善を行う力がある」という状態には至っていない可能性があるのです。

また、自分の何かの利得のためではなく、相手のニーズに適うことが必要なのです。

それが、身体的なサポートなのかも知れません。

あるいは、経済的なサポートなのかも知れません。

その時に、惜しみなく「善」を積み上げておく必要性を感じています。

それは、自ら差し出すこともあるでしょうけれど、一番自然なのは、こぼれ落ちるように、あるいは、溢れ出るように、相手に流れていくことです。

そうすれば、相手が、変にプライドを傷つけられることなく、受け入れられる可能性も高くなるのではないでしょうか?

気を付けたいのは、自分がしたいことをするという独り善がりです。

その様な時には、「どや顔」になりやすいので、それが、軋轢を生んでしまいかねません。

自分自身と向き合うのは、ナカナカの忍耐が必要です。

自分を健全に磨いていきたいと考えています。

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Posted by dblacks