自分の意志と一致しなくても「2×2=4」 ドストエフスキー
『問題が一覧表だの、算数だのというところまでいってしまって、2×2=4だけが幅をきかすようになったら、もう自分の意志もくそもないじゃないか。2×2はぼくの意志がなくたってやはり4だ。自分の意志がそんなものであってたまるか。ドストエフスキー『地下室の手記』(新潮社)』
世の中には、「正解だけ知りたい人」とか「正解さえ受け入れたくない人」がいるように感じています。
自分の状態を知ること、周囲の状態を知ること、思考すること、対応策を考えること、そして、実行すること、さらに、その結果を受けて、思考し、対応策を考えて、また実行する。
そのようなくり返しが人生だと考えています。
これらは、無意識で行っていることが圧倒的に多いのではないでしょうか?
「正解だけ知りたい人」は、自分が観察も思考もせずに実行するための魔法の杖として探しているように感じています。
どうすれば、何をすれば、合格できるかという発想です。
しかし、それで、受験は、突破できる可能性がありますが、人生のグネグネ道を歩くのは難しいのではないでしょうか?
やっぱり、どこかで、「観察や思考」が大切なのですね。
冒頭にあるドストエフスキーのフレーズは、「正解さえ受け入れたくない人」をイメージさせます。
自分の意志をどこに置くのかによって、気持ちの落ち着きどころが変わります。
そもそも、数学の正解は、人生における正解とは違うという大前提があります。それをドストエフスキーが巧みに描写しているとも言えますよね。
舗装が行き届いた平たんな道路のような人生など、私は無いと考えています。
また、ドンピシャなタイミングの出会いも、人間側からすると偶然にしか思えません。
つまり、自分で計画しても、その通りに、すべてできるという事は、極わずかです。
でも、創造主である神【主】の視点からすると、それが、必然だったりするのでしょう。
有限な人間の感覚との乖離があるのです。
人間の関わりなども、ある程度の配慮をしても、及ばないこともあります。
「蓼食う虫も好き好き」という不思議な関わりがあるのも、人間の計算外の意志決定なのでしょうね。
その現状を「受け入れる」のか、「受け入れたくない」のか、それが、人生の中で、問われている事なのでしょうね。
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