知識と実践は、車の両輪 バランスが大切
「牧師は歩合給にしろ」というようなビジネスマン信者さんからの厳しいご意見があります。
厳しいビジネスの世界にいる人にとっては、結果がすべてなのでしょう。新規のメンバーが増えづらい時代には、教会運営も様々な課題があるようです。
様々なモデルケースをビジネス的に構築して欲しいですね。
でも、そのような厳しい指摘は、自分自身に向けられていて、そのビジネスマン信者さんは、自ら、葛藤されているのでしょうね。
さて、信仰生活はマニュアル化も難しいオリジナルケースばかりです。
そこに、成果主義を持ち込むと、破綻する可能性が高くなると、私は考えています。
信仰者は、社会的にも成功者で無ければならないという脅迫観念的な考え方もあります。
そこで、自分なりにどのような組み替えをしてきたかを整理整頓してみようと思います。
まず、「大丈夫」の確認です。
信仰者は、創造主である神【主】に信仰し、信頼するときにどうして大丈夫になるのかというものです。
これは、先祖アダムから受け継いだ、肉体的生命に取り憑いた「罪」の解決です。これは、人間が幾らお金を積んでも、どんな善行をしても、どんな修行をしても及ばないものです。
その解決策は、唯一の神の子羊であるイエス・キリストが十字架刑で、全人類の罪を背負い,いのちを持って贖いを完成したこと、葬られ、三日目に復活されたことを信じることにあります。
それにより、信仰者は、「キリストの義の衣を着る」ことで、創造主である神【主】の御前に「義」とされるのです。やがて、「肉体を離れるときに、罪からも解放される」のです。
信仰者は、それが、確実に約束されているので、不安では無く「平安」でいられるのです。
これが、ベースにあれば、罪責感に苛まれることが激減します。肉体に生きている限り、罪責感がチクチクすることはあるのです。その性質が残っているのですから当然です。
そのために、知識を集積し整理整頓をしました。
旧約聖書に記されている事と新約聖書に記されている事を付き合わせて、預言と成就を理解する必要がありました。
もちろん、聖書には、わからないことも非常に多くあります。それらは、天に行った時に、真実を知ることができると考えるようにしました。
一番、難航したのは、ヨハネの黙示録です。幻をどのように理解するのか?など様々な解釈があります。でも、自分にとって、合理的に受け取れるディスペンセーション神学をベースに整理することで、この地球が創造される前、宝石の園エデンから新天新地までの筋道を確認することができました。
その「平安」をベースに、穏やかな日々をエンジョイできるのはすばらしい事だと考えています。
どうやら、信仰者には、「知識と実践から、知恵を積み重ねていく筋道が大切」なようです。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません