恋と運命と死 倉田百三
『私は恋をしだしてから、変に死のことが気になりだしました。恋と運命と死と、皆どこかに通じた永遠な気持ちがあるような気がする。 倉田百三『出家とその弟子』(岩波書店)』
結核療養と肋骨カリエスを患っていた倉田百三が、宗教的なものや施設での心情を投影させて書いたと言われています。
「恋」は、根拠がなくても、大胆さを引き出すイメージがあり、「死」というのは、どこかに押しやられているのかと考えていましたが、倉田百三の場合は、どうやら違ったようです。
でも、彼のイメージの中では、「恋」「運命」「死」が繋がっていて、「永遠な気持ちがある」と言うのです。
恋は、運命にも左右される要素です。
また、「死」は、肉体とは切っても切り離せません。
「ドキドキ」は、生きている証ですが、様々な「ドキドキ」があります。
若者の恋は、ワクワクドキドキでしょう。
年齢を重ねてくれば、生かされていることを実感する「ドキドキ」なのかも知れません。
「永遠な気持ち」というフレーズの流れを見ていて、ふと思いだしたのは、「3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。伝道者の書3:11新改訳2017」です。
この中で、「人の心に永遠を与えられた。」と部分が、このフレーズでも、呼び起こされたのかと想像してしまいました。
人間が、思い起こすイメージと、また異なるマインドなのかも知れません。
でも、その思いは人間にはあるという事ですね。
恋の先にある人生が、ステキである事を願います。
さらに、永遠に思いを向けるともっとステキな事が起きると思いますよ。
『出家とその弟子』(しゅっけとそのでし)は、倉田百三による戯曲である[1][2][3][4]。(略)
概要
失恋と病、第一高等学校退学などの挫折を経験し[22]、姉二人や祖母の相次ぐ死を受けて執筆された倉田百三の代表作である[11][23]。学生時代に薫陶を受けた西田幾多郎の哲学や、闘病中に救いをもとめたキリスト教や仏教、さらに一時期身を寄せた一燈園での経験などが投影されている[24]。1916年(大正5年)11月から翌1917年(大正6年)4月にかけて同人誌『生命の川』で第四幕第一場までが連載され、1917年(大正6年)6月に岩波書店から全編が出版された[4][6][7][8]。『歎異鈔』に代表される[25]親鸞の思想を下敷きとした[6]仏教文学の一つとされるが[26]、「祈り」などキリスト教的な要素も見られる[25][27]。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません