国家、宗教、組織、個人の信念(信仰)

憲法19条の条文
第十九条〔思想及び良心の自由〕 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。 引用:日本国憲法

憲法19条は、「思想および良心の自由」について書かれている条文で、個人がどう考えているのか、どのような思想を持っているかは自由であるということです。

また、思っていることを外部に表明することを強制されないということでもあります。ですから、国家権力でも、個人の思っていることを無理やり聞き出すことは認めらず、どんな思想を持っていても国家から不利益な扱いを受けることはないという原則です。

しかし、江戸幕府がキリスト教の信者をあぶり出すために「踏絵(ふみえ)」を使っていたように、思想を無理矢理表明させる行為は憲法に違反することになるのです。

歴史では、これらの思想や良心の自由を侵害する行為がたびたび行われてきました。

それが、歴史に残っています。

ローマ帝国は、A.D.313年、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝が出したミラノ勅令によってキリスト教が公認され、キリスト教が国教となりました。しかし、それによる迫害などもあったであろうと推察します。

人間が統治するときに、問題が起こります。

それは、不完全さが際立ち、それを覆い隠すために強権を発動しようとするからではないかと考えています。

私は、個人の信念こそ信仰であると考えています。

これは、何をどの様に信じているというのが、人によって似ているけれど微妙に違うという状態であるのを危惧しています。

創造主である神【主】を信じている人は、福音の三要素といって、「人間を「罪」から贖い出すために、御子イエスが、十字架に架かり死に、葬られ、三日目に復活した。」事を自分のためだと、感謝して受け入れるならば、神の子とされるのです。

この原則だけが、キリスト教の中心だと考えています。そして、信仰者自身が「神の宮」とされるのです。

一義的には、その場にいて礼拝が成立するのです。

それが、基本で、その次にコミュニティーです。地方教会の役割がそれです。人間同士が仲良く、その信仰を共有できるというのが目的です。

教会に行くというきっかけも大切ですが、核心は。個人単位を信仰確立なのです。

しかし、世界は広い、様々な発想があるようです。

組織化や宗教としてのありがたみ、さらには、国教化への願望までもあります。

国教化の願望は、大患難時代の後に設立される千年王国で現実となります。

見せかけの儀式や権威に惑わされないように注意も必要ですね。

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Posted by dblacks