愛ってなんだろう? 箴言17:17
『17:17 友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。 箴言17:17新改訳2017』
「友」と聞くと、信仰者は「いつくしみ深き友なるイエスは(讃美歌312)」をイメージする人が多いのではないでしょうか?
創造主である神【主】が「友」というと、その付き合い方が難しく感じます。
史実、そして、事実として、メシアであるイエス・キリストが約2000年前に来臨され、受難のメシアとして、十字架に架かり死に、葬られ、三日目に復活されました。
その目的は、罪人の友となり、「死の恐れから解放するため」でした。ですから、罪人がいる世の中に降りてきてくださったのです。目線を合わせ、その掌のクギの後を見せるときに、そのいのちを賭けた愛が伝わるのです。
しかし、残念ながら、その愛を受け入れた信仰者と友になられるのです。
また、信仰者は、神の子として、養子に迎え入れられます。そうすると、メシアであるイエス・キリストとの関係は、「兄」と見上げる事になりました。
この箴言に、「友」と「兄弟」と記されていますが、その両方の関係性があるのです。
人間の愛には限りがあります。でも、【主】の愛には限りがありません。
信仰者は、その愛の中を「永遠の幸福マインド」で生きることができるのです。
苦難を分け合うとは、真実や真理から引き離そうとする悪の感化の影響です。
信仰者たちは、この世では、迫害される傾向が高いです。これは、価値観の相違によるものです。
信仰者は、この世での苦難を遙かに超えた愛に包まれ、永遠の命に生きているのです。
これは、肉体的生命しか理解していない人から見れば、未知の領域です。
信仰者は、その肉体的生命に宿りながら、時には病、時には迫害、または、苦難、試練困難を歩むのです。
その励みは、「永遠の幸福マインド」つまり、「永遠の輝く御国」が到来するという希望に基づいたエネルギーなのです。
目先の勝利にこだわる必要はありません。
すでに、創造主である神【主】が、完全な勝利を獲得しているのです。
相手に、目先の勝ちを譲り、相手を立てる心のゆとりを通して、【主】の愛を示すのです。
また、感情的になることなく、冷静に自分の見解を述べる振る舞いも大切です。
信仰者は、完全な勝利者イエスが「友」であり、「栄光の王」として世の終わりまで共に居て下さるのですから、自己満足を求めなくても、必要十分な充足感を味わえるのですね。
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