ヨハネの黙示録1章『序文、あいさつ、天上のキリスト』
ヨハネの黙示録1章『序文、あいさつ、天上のキリスト』
1:1~3 序言
1:4~8 あいさつ
1:9~11 ラッパのような大きい声
1:12~16 栄光の輝く人の子
1:17~20 幻について
ヨハネの黙示録第1章スタディーノート
ヨハネは十二使徒(弟子)の一人、イエス・キリストにもたれかかっていたほど近くで行動を共にしていた人です。イエスの復活、昇天後、福音への迫害のために捕らえられ、パトモス島に流刑されていました。その時、【主】から見せられた幻を記したのが、ヨハネの黙示録です。パウロもヨハネも獄中で執筆をしていたのです。
【主】の計画は、人知には予測不能ですが、このように、囚われの身になった時でも、幻の啓示を与え、それを伝達するように促されるのです。
(1)序言(1:1~3)
『イエス・キリストの黙示』
「黙示」はギリシャ語で「アポカリプシス( Ἀποκάλυψις)」が使われ、その意味は、「覆いを取る、啓示する」という意味がありますが、ヨハネが書いたことから、『ヨハネの黙示録』と呼ばれています。しかし、【主】は、『イエス・キリストの黙示』というタイトルをつけました。
啓示は、父なる神(第一位格)→ キリスト(第二位格)→ 御使い→ ヨハネ→ 試練の中の信仰者たち(私たちも含まれる)という流れになっています。
『すぐに起こるべきこと』とは、ヨハネが見た幻が数年以内に起こるということではなく、ギリシャ語で「エン」+「タコス」で「エン・タケイ」が用いられていることから、『時が来たならすぐに起こる』という意味でしょう。ダニエル2:28~29、45にある「終わりの日に起こること」と同じことを指しています。
使徒ヨハネはキリストのしもべであり、強大な権力を持つローマでさえも恐れず「キリストの御心」だけを行い、自分が見たすべてのことを証ししたので、私たちに黙示録が残されました。
これは、『朗読する者と聞く者に祝福が約束されている唯一の書』なのです。時代背景として、当時は個人が聖書を所有することなく、礼拝の場に出て、聖書朗読を聞くしかなかったのです。
『時が近づいている』は、「時が来たなら、すぐに起こる」という意味で、ここでの「時」には「カイロス(ギリシャ語)」が使われています。
(2)あいさつ(1:4~8)
『ヨハネからアジア州にある七つの教会へ』(新共同訳)と記されていますが、当時のギリシャ領(現トルコ領)に実存した七つの教会を指しています。これら教会は、激しい迫害にあっていて、その中の五つは、内的問題を抱えていました(2~3章)。
ヨハネの黙示録執筆の目的は、苦しんでいる信徒たちを励まし、過ちを矯正することです。ですから、七つの教会だけに向けた手紙ではなく、「教会全体」を象徴的に表していると理解するべきでしょう。当時アジアには、コロサイの教会など七つ以上の教会がありました。また、回遊書簡という意味合いもあったのでしょう。
『恵みと平安があなたがたにあるように』とある、「恵み」とは、「信仰者に与えられる神の変わることのない愛」で、「平安」とは、『神との正しい関係』です。「恵み」と「平安」は、イエスの十字架上の御業を土台としたものなのです。
三位一体の創造主である神【主】についての描写もなされています。「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」とは、父なる神(第一位格)であり、『その御座の前におられる七つの御霊』とは、聖霊なる神(第三位格)です。「7」という数字は、「完全、完成、満たし」などを意味しています(イザヤ11:2)。
そして、『確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者』とは、子なる神キリスト(第二位格)を指しています。キリストは復活の初穂であり、やがて再臨し、地上に千年王国を設立されるのです(黙19~20章)。
キリストは血を流すことによって、私たちに祝福を与え、信仰者たちを罪から解放し、信仰者は、聖徒とされ、神の御国の一員とされました。王であるキリストの支配と守りの下に置かれているのです。また、信仰者は、大祭司イエス・キリストの御名により、祭司として天の御座に近づけるようになりました。聖徒とされた信仰者は、義認、聖化、解放のステップを地上で歩んでいます。そして、空中携挙で栄化されるのです。
この偉業を成し遂げたキリストを称える言葉(頌栄)は、キリストを信じたすべての信仰者(クリスチャン)が唱えるべきものです。
『7 見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。(1:7)』は、ヨハネの黙示録におけるテーマ聖句です。
『その方は雲とともに来られる。』とは、時制は現在形で、ヨハネにとっては、すでに起こったのと同じことで、それは、『必ず起きる』という意味なのです。
かつて、復活したキリストは、栄光の雲に包まれて昇天されました(使1:9)。
空中携挙と再臨の違いを認識する必要があります。空中携挙は、大患難時代の前にペンテコステ以降の信仰者が天に挙げられることです(黙3:10参照)。
再臨とは、キリストが大患難時代の最後に地上に来臨されることです。詳しくは、再臨の項(黙19章)で記します。
メシアの再臨を目撃するのは、二つのグループです。『彼を突き刺した者たち』とは、地上に残されたユダヤ人たちのことです(ゼカリヤ12:10参照)。『地のすべての部族』とは、全人類のことです。その嘆きの理由は、キリストの裁きを恐れるからです。
8節は、「キリストの神性宣言」です。『今おられ、昔おられ、やがて来られる方』は、キリストの永遠性を示しています。
『全能者』は、キリストが歴史も含むすべてを支配しておられること示しています。『アルファであり、オメガである』とは、『キリストの神性』を示しています。これは、旧約聖書では、創造主である神【主】を指す呼び名です(イザヤ44:6、48:12~13参照)。第二位格であるキリストも、第一位格と同様の神性を持った御方であるということです。
聖書には、本物の歴史観があり、本物の歴史哲学があるのです。歴史がどう動くかについての鍵を握るのはキリストなのです。
『神の言葉とイエス・キリストのあかし』と『ヨハネの証言』が記されているヨハネの黙示録は、二重に信頼できる書だと確信しています。
(3)ラッパのような大きな声(1:9~11)
ヨハネは、『あなたがたの兄弟』、そして、『あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている者』と自己紹介しています。
信仰者には、「苦難」、「御国」、「忍耐」の3つが関連しています。
その時代、ヨハネとその同労者たちは、「主にして神」と自称し、人々にそれを認めるように強要していたローマ帝国のドミティアヌス帝によって迫害されていました。それに反発していたのが、ユダヤ人とクリスチャンでした。この迫害は、イエスが預言しておられたヨハネ16:33に記されていることです。また、パウロも同じ真理を教えていました(使徒の働き14:22)。パウロもまた、苦難、神の国、忍耐を関連づけています。
ヨハネは、『神のことばとイエスの証しのゆえに、パトモスという島にいた』と記しています。これは、『神のことばに対する信仰と宣教のゆえに』という意味合いと、『イエスについての証しのゆえに』とが原因で、エペソの南西、エーゲ海に浮かぶパトモス島に島流しになっていたのです。
使徒ヨハネが実在していたという教会教父たちの証言があります。エイレナイオス、アレクサンドリアのクレメンス、エウセビオスは、それぞれ、「ヨハネは、エペソでの牧会の後、この島に島流しになった。」と記し伝えています。
最初のヨハネの黙示録の注解書を書いたヴィクトリヌスの証言によると、ヨハネはパトモス島で囚人として、鉱山で働かされ、A.D.96年にドミティアヌス帝が死ぬと、ネルウァ帝はヨハネのエペソ帰還を許したと記しています。
ヨハネが記した『主の日』とは、週の初めの日ではなく、原文では「主の」という言葉は形容詞であることから「主の栄光が輝き出た特別な日」と理解するのがスムーズです。よく知られている言葉を使いながら、「特別な日」を描写したのでしょう。
旧新約聖書では、『主の日』とは「裁きの日」の意味で用いられていて、ここで、記されている内容とはニュアンスが異なります。(イザヤ2:12、13:6、ヨエル1:15、1テサロニケ5:20、2ペテロ3:10など参照)
『私は主の日に御霊に捕らえられ』と記されているのは、『御霊に満たされ神からの啓示が受けやすい状態になった』ということでしょう。
『ラッパのような大きな声を聞いた』とあるのは、「明瞭で大きな声」であり、おそらく、戦いを告げるラッパがイメージされているのだと想像できます。
その声がヨハネに命じたのですが、声の主はイエス(第二位格)です。その内容は、『これから見ることを巻物に記して』、『小アジヤにある七つの教会に送りなさい』というものでした。使徒ヨハネは、これらの教会から「霊的父」と仰がれていたのでしょう。この七つの教会はすべて自立した教会で、地理的には、エペソから始まり、半円形に北、東、南へと回る配置になっています。詳しくは、2章から3章で述べます。

『見たことを記せ』という命令は、黙示録に12回出てきます。また、書いてはならない幻が一つあります(黙10:4)。
(4)栄光に輝く人の子(12~16節)
ヨハネは、声が出てくる方を振り返ると、七つの金の燭台が見えた。これはメノラー(七枝の燭台)ではなく、七つの独立した燭台で、その意味は、後に20節で解き明かされます。
燭台の真ん中に『人の子のような方』を見た。『人の子』はメシアの称号です。イエスは好んでこのタイトルを使用されました。『人の子』は、福音書には、80回以上出てきます。また、ダニエル7:13には、『人の子のような方』というタイトルが出てきます。
『足まで垂れた衣をまとい』と記されている長い衣を着ているのは、裁き主(裁判官)の姿であり、『胸に金の帯を締めて』いるのは、正義によって裁くことの象徴です。これが、天上のキリスト(第二位格)の姿です。
14節の描写は、ダニエル7:9の『年を経た方』に似ています。『年を経た方』とは、永遠の昔からおられる父なる神(第一位格)なのです。子なる神(第二位格)も、父なる神と同じ聖さと永遠性を持っておられるのです。それを同じ描写で『その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く』と表現しているのです。
『その目は燃える炎のよう』とあるのは、完璧な知識、誤りなき洞察力、罪に対する容赦なき裁きを示しています。この表現は、ヨハネの黙示録2:18でも使われています。
『足は、炉で精錬された、光り輝く真鍮のよう』と記された真鍮(しんちゅう)は、銅と亜鉛の合金です。この『真鍮(しんちゅう)』という言葉は、黙1:15と2:18にしか出てこないので、その真意を測りかねる要素でもあります。ギリシャ語では「カルカリボノス」が使われ、「銅と銀や銀の合金」だと提案する学者もいますが、いずれにしても、銅を基にした合金であることだけは確かです。
神殿の中の青銅の祭壇は、罪のためのいけにえと、その上に下る神の怒りに関係しています。『その足は、炉で精錬された、光り輝く真鍮』は、キリストが裁き主であることを示しています。
『声は大水のとどろきのよう』とあるのは、大波のとどろくのように威厳があり、畏怖の念を抱かせる声であり、このような声の持ち主に挑戦する者はいないと思われます。
『右手に七つの星を持ち』は、右手は権威ある所有を表し、星については、20節で明かされます。
『口から鋭い両刃の剣が出て』とありますが、『両刃の剣』は、『神のことば』です(エペソ6:17、ヘブル4:12参照)。この言葉は、キリストの裁き主としての性質を表現しています。ギリシャ語の「ロンファイア」で、ローマ兵が敵を刺し殺すために使用した武器を意味します。
『顔は強く照り輝く太陽のよう』は、キリストが持っておられるシャカイナグローリーの現れです。変貌山のキリストをイメージしますが(マタイ17章)、天上のキリストは、常にその状態のようです。
(5)幻について(1:17~20)
ヨハネは、『この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。』と記しています。かつての変貌山での弟子たちのようにです(マタイ17:6)。
パウロも同じような体験をしています(使徒の働き9:3~4)。
そのような状態でも、キリストは『恐れることはない。』と御手を延べてくださるのです。これは、【主】からの交わりの御手です。
『わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。』とあるのは、キリストは『永遠の存在で、復活したお方』でもあるということです。
さらに、『わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。』と続き、一度死んだが、復活し、永遠に生きていることを述べています。
そして、『死とよみの鍵を持っている。』と宣告されています。これは、死に対する権威と死者が行く場所(よみ、または、ハデス)に対する権威を持っていると言うことです。つまり、クリスチャンの死と復活は、キリストの御手の中に握られているのです。
19節は、ヨハネの黙示録のアウトラインです。ヨハネの黙示録は、あなたの見たこと(1章)、今あること(2~3章)、この後に起こること(4~22章)に分けられます。その中でも、この後に起こること(4~22章)が預言的内容で、ヨハネの黙示録における中心部なのです。
ヨハネの黙示録では、まず象徴(シンボル)が紹介され、次にその意味が解き明かされています。その秘められた意味の解説が与えられます。ですから、不可解な書ではなく、注意深く記された書なのです。
大切なのは、字義通りの解釈だけであり、ヨハネの黙示録の本当の意味を解き明かすことができると考えています。もし、ヨハネの黙示録の中に解説がないなら、他の箇所(特に、ダニエル書、エゼキエル書)に、それがあります。聖書全体を勤勉に学ぶ者にだけ、ヨハネの黙示録の意味が開かれてくるのです。
『七つの星は七つの教会の御使い』は、七つの教会を守護する御使いが居るということです。
聖書では、「星」と記されると「御使い」を指しているのでその原則に従えば、御使いと解釈した方が自然だと考えられます。
『七つの燭台は、七つの教会』とあるのは、教会はこの世に光を届ける使命を持っているので、燭台という象徴は適切なのです。
『人の子』のような姿を見た時、ヨハネは『死んだ者のように倒れ込んだ』と言うのは、正に神々しい光景を目の当たりにしてのことでしょう。そのような状態のヨハネに、右手を置いて『17 恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。…』と語られました。
かつて、そばで共に生活していた時の声とどれほどの差があったかは、ヨハネにしか分からないのでしょうけれど、安心感があり平安に満ちた語りかけだったと想像します。
生きている【主】が、今も、後も、世々限りなく共にいてくださるのです。【主】は人間と共に、信仰者には実感を伴って、そばにいてくださるのです。これほど安心なことはないのではないでしょうか?
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