ヨハネの黙示録第2章スタディーノート(1)エペソ、スミルナ

ヨハネの黙示録2章『七つの教会への手紙 エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアテラ』
2:1~7 エペソにある教会への手紙
2:8~11 スミルナにある教会への手紙
2:12~17 ペルガモンにある教会への手紙
2:18~29 ティアテラにある教会への手紙
 
ヨハネの黙示録第2章スタディーノート
(1)七つの教会の神学的意味
 選ばれた七つの教会よりも有名な教会がありました。それは、コロサイ教会、ローマ教会、アンテオケ教会、エルサレム教会などです。
 でも、実際に選ばれたのは小アジヤ(現在のトルコ。東アナトリア地方と南東アナトリア地方はトルコ東部)に存在していた教会でした。この七つの教会には、地理的な繋がりがあります。①エペソから始まり、②そこから北に行くとスミルナ、③さらに北に行くとペルガモン、④そこから東に行くとティアテラ、⑤そこから南に行くとサルディス、⑥そこから東に行くとフィラデルフィア、⑦そこから南東に行くとラオデキヤ、となります。
 また、七つに限定されたのは、象徴的数字であり、完全数だからではないかと考えられています。
 
三つの神学的意味が考えられています。
七つの教会とは、当時小アジアに存在していた実際の地域教会です。これは字義通りの解釈の結果出てくる結論です。
七つの教会とは、教会の七つの型です。
 教会史のどの時代でも、この七つの型は存在していました。これは、七つの教会への手紙を学んだ結果、出てくる推論です。これらの手紙の内容は、今の教会だけでなく、各個人にも適用されます。
七つの教会とは、それぞれの時代の教会の特徴を預言的に表したものです。
 つまり、ある時代には、ある教会の型が顕著に表れるという傾向を見ることができます。これも、学びの結果出てくる推論です。また、これは、未来的アプローチと調和する解釈法です。
 
七つの教会と教会史における七つの時代
エペソにある教会は、「使徒時代の教会(紀元30年~100年頃)」の型で、「好ましい」という意味があります。正統的な教理はあるが、最初の愛から離れた教会の型です。
スミルナにある教会は、「迫害時代の教会(1世紀~4世紀)」の型で、「没薬」という意味があります。迫害に耐える教会の型です。
ペルガモンにある教会は、「国家教会時代の教会(4世紀~5世紀)」の型で、「結婚した」という意味があります。妥協する教会、寛容すぎる教会の型です。
ティアテラにある教会は、「暗黒時代の教会(6世紀~15世紀)」の型で、「継続した犠牲」という意味があります。西方ではローマ・カトリック教会が、東方ではギリシャ正教会が支配しました。忍耐深いが、誤った教理を許容する教会の型です。
サルディスにある教会は、「宗教改革時代の教会(16世紀~17世紀)」の型で、「逃れる者」という意味があります。宗教改革の光は、短時間で消え始めました。死にかけている教会の型です。
フィラデルフィアにある教会は、「大宣教時代の教会(18世紀~19世紀)」の型で、「兄弟愛」という意味があります。リバイバルが起こり、宣教師たちの活躍がありました。忠実な教会の型です。
ラオデキヤにある教会は、「背教時代の教会」の型で、「人々が支配する」という意味があります。終わりの時代の教会、自由主義神学の教会、エキュメニカル運動の教会です。生ぬるく、役に立たない教会の型です。この教会への手紙には、賞賛がありません。

 
(2)エペソにある教会(2:1~7節)
①宛先(2:1) 
 当時、エペソは小アジア有数の都市で、港町として栄えていました。ギリシャ領であり、アルテミスの神殿がありました。古代世界の七不思議の一つとされました。ローマ神話の女神 ディアーナはギリシャ語でアルテミスです。パウロは第三回伝道旅行で、ここに三年間留まり、効果的な弟子訓練を行った歴史があります。その影響が大きくなったので、銀細工職人たちが暴動を起こすほどでした(使徒の働き19章参照)。エペソにある教会への手紙は、パウロの奉仕から40年以上経って書かれました。
 教会の御使いとは、教会を守る守護天使のことです。
 キリストの描写は、『右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方』と記され、『七つの星』は、「七人の御使い」を示し、『七つの燭台』は、「七つの教会」を示します。これは、教会に対するキリストの守りと主権を説明しています。キリストは、地域教会のこともすべて知っておられるのです。
②賞賛(2:2~3) 
 この教会は、四十年以上にわたり教理的な純粋性を保ったので、ほめられています。【主】は、欠点を指摘する場合でも、まず長所をほめてくださいます。【主】は、彼らの行い、労苦、忍耐をご存じなのです。
 エペソの教会は、悪い者たちを追放しました。この「悪者たち」とは、偶像礼拝の影響を受けた者や、道徳的に問題のある行動をする者だと考えられます。
 エペソ教会の信徒たちは、偽教師たちの誤った教えを見抜いて拒否しました。偽教師たちは、七つの教会の最初の四つに存在していました。偽教師が出ることをパウロは予告していました(使徒の働き20:28~31、2コリント11:13参照)。エペソの信徒たちは、使徒たちの教えに照らして偽りの教えを見抜いたのです。
③叱責(2:4)
 パウロは、エペソの教会の信仰者のことを聞いて、絶えず神に感謝しています。彼らは、信仰と愛に満ちていたのです(エペソ1:15~16参照)。
 それから四十年以上経って、彼らは『初めの愛』から離れてしまいました。この時、信仰者のほとんどが、第二世代のクリスチャンでした。この教会では、正統的な教理が教えられ、奉仕も熱心に行われていました。しかし、キリストに対する愛が欠如していたのです。これが、使徒たちが死んだ直後の時代の教会の姿だったのです。
④奨励(2:5~6) 
 悔い改めの勧めがなされています。ここでは、個人への悔い改めの勧めになっています。
 どこから落ちたかを思い出し、初めの行いをすることを奨めています。悔い改めないなら、教会は取り除かれるのです。心の変化と行動の変化は合致するものです。
 『キリストも憎んだニコライ派の人々の行いを憎んだ。』とほめ言葉も出てきます。
(参考)ニコライ派とは誰かについて、いろいろな意見があります。①ニコラスという指導者に従っているセクト②ニコライ派の意味は、「人々の支配者(民から霊的自由を奪う聖職者の階級制の先駆けか?)」。③あるいは、キリスト者の自由を乱用し、不道徳な行為を容認するセクトか。などの見解があります。
 その後のエペソ教会について、紀元後(431年)に、教会公会議「エペソ会議(キリスト論を議論した)」の舞台になりました。紀元5世紀以降教会も町も衰退し、紀元14世紀以降その近辺は荒廃したままになっています。
⑤約束(2:7)
 『勝利を得る者』とはイエス・キリストを神の子と信じる者です。つまり、真の信仰者(クリスチャン)のことです。真の信仰があれば、誘惑や試練に勝利することができるのです。
 与えられている約束は、『わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある』です。これは、天において与えられる『永遠のいのち』を意味しています。
※エペソにある教会から学ぶ教訓
 教理的正統性と熱心な奉仕だけでは、不十分です。奉仕の動機は、そうすることが正しいということだけではなく、「キリストに対する愛があるかどうか」なのです。【主】は、私たちの行為だけでなく、心も求めておられます。
 
(3)スミルナにある教会(2:8~11)
①宛先(2:8) 
 スミルナは、エペソの北約55キロメートルにある港町です。先述のエペソの町は今日、廃墟と化していますが、スミルナは、今も、人口約20万人の港町(イズミール)として栄えています。
 スミルナとは「没薬(もつやく)」という意味です。没薬は、イスラエルで死者を葬る時に用いるものです(ヨハネ19:39参照)。スミルナという言葉は、迫害や死を予感させるものでもあります。
 キリストの自己紹介は、『初めであり、終わりである方』からはじまります。つまり、キリストは永遠の神【主】です。また、『死んでよみがえられた方』と続きます。キリストは、迫害者の手によって殺されたが、墓から復活された御方なのです(黙1:5参照)。
 この自己紹介は、迫害を通過していた信仰者たちには、大きな慰めとなったことでしょう。彼らは、日々死の危険性に直面していました。
②賞賛(2:9) 
 スミルナの信徒にとっての慰めは、キリストは、彼らの苦しみと貧しさを知っておられるということです。彼らは、経済的には、極貧状態に置かれていました。しかし、彼らは実際には富んでいたのです。これは、霊的豊かさのことを意味しています。
 また、『サタン(悪魔)の会衆である者たちから』ののしられていました。悪魔(サタン)の会衆とは、『サタン(悪魔)の会堂に属する者たち』(口語訳)のことです。「シナゴーグ・オブ・サタン」とは、その地区にあるユダヤ教の会堂を意味します。彼らは「ユダヤ人」(ユダとは主を称えよという意味)でありながら、先祖たちの信仰に立っていないのです。
 つまり、スミルナの信仰者たちは、三種類の迫害を受けていました。Ⅰローマ帝国による「カイザルは主である」と告白しない者に対する迫害。Ⅱ宗教的なユダヤ人による迫害。Ⅲ悪魔(サタン)による迫害(悪魔(サタン)は四つの手紙に登場します。黙2:9(スミルナ)、2:13(ペルガモ)、2:24(ティアテラ)、3:9(フィラデルフィア))です。
③叱責 
 スミルナの教会に対する叱責はありません。その迫害は耐え難いほどでしたが、彼らの信仰の純粋性は保たれたのです。
④奨励(2:10) 
 苦しみを恐れてはいけないという励ましの言葉は、彼らはすでに恐れていたのですが、『何も恐れることはない』という命令です。
 この迫害はまだ続くことを、キリストはすでに知っておられました。『悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。』と述べ、悪魔(サタン)の攻撃があること、信仰を試すための投獄があること、十日の間苦しみを受けることが記されています。
 『十日の間』の意味は、文字通りの十日間なのか、ある限定された期間を指す言葉です。それは、迫害はいつまでも続くものではないという意味があるのでしょう。歴史には、ディオクレティアヌス帝による十年間の迫害が記されています。
 教会が受ける迫害の全体を示す象徴的数字とも考えられています。紀元96年~313年の間に、キリスト教会を迫害したローマ皇帝がⅠネロ、Ⅱドミティアヌス、Ⅲトラヤヌス、Ⅳハドリアヌス、Ⅴセプティミウス、Ⅵマクシミヌス、Ⅶデキウス、Ⅷヴァレリアヌス、Ⅸアウレリアヌス、Ⅹディオクレティアヌスなど十人出ています。
⑤約束(2:10~11)
 『死に至るまで忠実でありなさい。』とは、例え殺されようとも、信仰を捨ててはならないと言うことで、迫害する者が信仰者の命を奪ったとしても、信仰者は霊的いのちを得るのです。『いのちの冠』とは、殉教者に与えられる特別な冠です。
 この段階では、まだだれも殺されていなかったのですが、後にスミルナ教会の司教となったポリュカルポスは、殉教の死を遂げました。使徒ヨハネの弟子で、カイザルを礼拝することを拒否したので、火あぶりの刑に処されました。それ以外にも、殉教者は多く出たことでしょう。
 奨励と約束は、個人に与えられています。預言の言葉の背後には、聖霊がおられます。死後に約束されている祝福(永遠のいのち)を黙想し待ち望むことは、試練を乗り越える力になります。
 真の信仰者は、第二の死(霊的死)を経験することはありません。第二の死とは、不信仰者が経験する神【主】との永遠の断絶です。そして、燃える火の池で永遠を過ごすのです。
※スミルナにある教会から学ぶ教訓
 この教会は、「迫害時代の教会(紀元100年頃~313年)」の型です。ミラノ勅令により、キリスト教がローマの公認宗教となりました。スミルナ教会は、迫害によって信仰が純化された教会なので、キリストからの叱責の言葉がないのです。迫害が終わるその時まで、純粋な忍耐を保ちたいですね。

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