ヨハネの黙示録第3章スタディーノート(2)ラオデキア
(3)ラオデキヤにある教会(3:14~22)
①宛先(3:14)
ラオデキヤは、フィラデルフィアから約65キロメートル南東に位置する裕福な町で、フィラデルフィアからコロサイに向かう途中にあります。この手紙が書かれる約三十五年前に、地震によって破壊されましたが、再建されました。主要な産業は、金融、羊毛製品、製薬で、すぐに会堂を再建できるほどの富があったようです。
パウロがこの町を訪問したという記録はありませんが、彼はラオデキヤ教会を祈りに覚えていました。
ラオデキヤとは、「人々が支配する」という意味で、「背信の教会(1900年から現代に至るまでの期間)」の型です。【主】イエスを締め出している教会であり、それが終わりの時代の教会と特徴でもあります。
まず、『アーメンである方』とキリストの自己紹介がなされています。イザヤ65:16にある『まことの神』は、「the God of amen」で、これは、旧約聖書では神【主】のタイトルです。人間世界の出来事の背後に、創造主である神【主】の主権があるのです。ですから、神【主】の約束はすべて成就するのです(2コリント1:20参照)。
次に、『確かで真実な証人』とあるのは、ヨハネの黙示録1:5と3:7で語ったことのくり返しです。『キリストは神【主】である』ことの再確認です。真実な情報を共有することが、問題解決のはじまりです。
さらに、『神による創造の源である方』は、キリストが、「天地が創造される前から存在していた方である」こと、また、キリストは、「被造世界に対して権威を持っておられる」ことを示しています。
これは、ラオデキヤの教会に向かって厳しい言葉を語るための準備なのです。
②賞賛
ラオデキヤの教会に関しては、賞賛の言葉がありません。その理由は、キリストにとっては、受け入れ難い教会で、牧師も信徒も、忌むべき霊的状態だったからです。パウロの時代から、この教会は霊的に危険な状態にあったと思われます(コロサイ4:17参照)。
③叱責(3:15~17)
キリストは、この教会の問題を知っておられました。それは、『生ぬるい』ことです。生ぬるい飲み物とは、ラオデキヤの教会の信徒たちの状態を表現しています。
古代世界では、宴会や宗教行事の席上、熱い飲み物か冷たい飲み物が出されました。人々は、生ぬるい飲み物は飲みませんでした。
それと同様に、キリストも、生ぬるい飲み物を口から吐き出すと記しました。
ラオデキヤ教会に対するこの叱責は、この町の水供給の状況を背景としたものです。ラオデキヤから、数キロ北にあるヒエラポリスから地下水路を通って水が運ばれていて、ラオデキヤに着く頃には、その水は生ぬるくなっていました。ラオデキヤの水を飲んだ人は、思わず吐き出しそうになったという体験を比ゆに用いたのです。水源に恵まれたヒエラポリスでは、温泉が湧き、コロサイでは、冷水が泉から湧き出していました。
それらの状況から、キリストは、冷たいか熱いかであって欲しいと言われたのです。この「冷たいとは、信仰に無関心な状態」を意味し、「熱いとは、信仰熱心な状態」を意味します。『生ぬるい』とは、「この世と妥協し、キリストを心から締め出している状態」を意味しているのです。これは、「信仰を告白しながら救われていない人」と、「救われてはいるが霊的に成長していない人」の両方を指すと考えられます。
霊的に生ぬるいという証拠が上げられています。それは、物質的な豊かさに満足し、自らの霊的貧しさに気づいていない状態で、彼らが、霊的に盲目であることへの指摘です。
このキリストの『実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。』という厳しい評価に注目する必要があります。
④奨励(3:18~19)
『豊かな者となるため』の奨励として、『火で精錬された金をわたしから買い』と記されています。この町は、金融業によって富を蓄積していました。『火で精錬された金』とは、「神の義」のことか、「神に栄光を帰す信仰」のことでしょう。これは、彼らを真に豊かにするものですが、これは買えるものではなく、信仰によって受け取るものなのです。
『あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い』については、彼らは、日常的に美しい衣をまとっていました。ラオデキヤの産物として有名なのは、黒い羊毛で作った黒いしなやかな上着です。しかし、その衣ではなく、白い衣を買うように命じられました。これこそ、「霊的裸を隠すための義の衣の象徴」なのです。
『目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい』とあります。ラオデキヤには、ペルガモンと同様に、エスクラピアス神殿(ギリシャ神話の名医)がありました。その神殿の中に、医学学校があり、そこでは、中近東でよくある眼病を直すための軟膏が売られていました。しかし、ラオデキヤの信徒たちが必要としていたのは、霊的洞察力で、それは、聖霊によってのみ与えられるものなのです。
キリストの叱責は、愛に基づくものです。もし愛していないなら、キリストはこの教会を無視するはずです。ですから、信徒たちは熱心になって、悔い改める必要があるのです。奨励も、その土地の人が分かりやすい表現を用いていることにも、【主】の愛を感じるのではないでしょうか?
⑤約束(3:20~22)
『見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(20)』
キリストの約束が絵画的表現で語られています。これは、一義的には、まだ信仰を持っていない人への勧告ではなく、信仰者への勧告です。ここを福音説教に引用するケースもありますが、それは、適用として語るということです。
信仰者の責務について考えると、「キリストを心の中から締め出していたという認識」、「キリストが外に立って戸をたたいておられるという認識」、そして、「キリストの声に応答して戸を開くという行動」が求められています。
それに対するキリストの約束は、「その人の心に入ってくださる」ことと、「彼とともに食事をし、彼もわたしと共に食事をする(親密な交流)」です。
『勝利を得る者』とは、キリストの招きに応答し、心にキリストを迎える者です。その人には、キリストと共に御座に着き、キリストの勝利にあずかることが約束されています。これは、千年王国で成就する約束です。それが、永遠の幸福の礎となるのです。
ここでも、『耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』が、勧告として出てきます。これが、七つの手紙の最後の勧告です。
※ラオデキヤにある教会から学ぶ教訓
ラオデキヤとは、「人々が支配する」という意味で、「背信の教会(1900年から現代に至るまでの期間)」の型です。【主】イエスを締め出している教会で終わりの時代の教会を象徴しています。自由主義神学の教会やエキュメニカル運動の教会であり、【主】にとっては、「生ぬるく、役に立たない教会」という評価を受けます。また、建物や富を誇り、霊的貧しさに気づいていない教会でもあり、そこに集う人が、この世の楽しみや成功に関心が向かい、キリストが締め出されている教会を指しています。
ヨハネの黙示録3:20は、教会全体ではなく、個人への呼びかけです。各人は「自分という家」の主人であり、内側からその家を守っています。戸を開くかどうかは、主人の決断にかかっています。
『生ぬるい』とは、キリストが心の外におられる状態であり、「まだ救われていない人状態」か「救われてはいるが、霊的に成長していない状態」であり、人間には、どちらに属している人なのかを判断するのは容易ではありません。
キリストを心に迎える人が増えれば、教会全体に霊的覚醒(目覚め)が起こります。
地方教会には、メガチャーチと言って、会衆の人数や建物の大きさや経済規模を誇示する所もあります。霊的状態が基礎になっていれば良いのですが、姿や形を主体としているとすれば、いつか大きなトラブルに見舞われる懸念があります。ケースによっては、背教の教会を去って聖書的な教会に集う必要もあるでしょう。
まず、個人単位の救いを確認する必要がありますね。その次に、自分に合うコミュニティーを探しましょう。焦ることはありません。インターネットで礼拝する方法もありますから、じっくり探せば良いのです。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません