ヨハネの黙示録第6章スタディーノート
ヨハネの黙示録6章『封印の裁き 第一から第六』
6:1~2 第一の封印が解かれる … 白い馬 反キリスト登場
6:3~4 第二の封印が解かれる … 殺し合い(戦争)
6:5~6 第三の封印が解かれる … 黒い馬(戦争による飢饉)
6:7~8 第四の封印が解かれる … 青白い馬(地上の1/4の人が死ぬ)
6:9~11 第五の封印が解かれる … 【主】の正義を望む殉教者の訴え
6:12~17 第六の封印が解かれる … 【主】による天変地異
ヨハネの黙示録第6章スタディーノート
(1)第一の封印が解かれる(6:1~2)
『ほふられたと見える小羊(新改訳第3版)』だけが、封印を解くことができるのです。
第一から第四の封印では、封印が解かれるたびに馬に乗っている者が登場します。馬に乗っている者は、呼びかけに応えて破壊的な活動を開始するのです。
第一の封印が解かれると『四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」と』呼びかけます。これは、これから登場する者への呼びかけです。
ヨハネが見たのは、『白い馬』で、これは、勝利の象徴です。その馬に乗った者は弓を持っていて、彼には冠が与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行ったと記されています。この表現は、ローマ時代、凱旋将軍は捕虜を従わせ、白馬に乗って行進したというイメージです。
この人物は、反キリストです。ヨハネは書簡の中で『反キリスト』という言葉を使用しています。でも、ヨハネの黙示録には、『反キリスト』という言葉は出て来きません。しかし、その人物が登場します。彼こそ、大患難時代における主役です。
この人物をキリストと解釈する人がいますが、キリストは大患難時代の最初ではなく、最後に『栄光の王』として登場されます(ヨハネの黙示録19:11参照)。
『反キリスト』に、冠が与えられます。勝利者がかぶる冠は、「ステファノス」で、「月桂冠」も同じ言葉で、(月桂樹(オリーブ)の枝をリング状に編んだ冠)、また、競技会の勝利者に与えられた冠です。
冠には、二種類あり、キリストがかぶる冠は、『ダイアデム(王族の冠)』です。
白馬に乗った人物は、弓だけで矢を持っていません。これは、彼が、イスラエルとの平和条約を結ぶことを意図しているのでしょう。しかし、戦争をしないで彼が作る世界統一政府は、短命で終わります。
(2)第二の封印が解かれる(6:3~4)
第二の封印が解かれ、四つの生き物の第二の生き物が、『来なさい』と次の人物を呼び出します。ヨハネが見たのは、『火のように赤い馬』です。赤い色は、流血を象徴しています。『それに乗っている者は、地から平和を奪い取ることが許された。』とあり、『人々が互いに殺し合うようになるため。』と続き、『彼に大きな剣が与えられた。』とあります。
これは、白い馬に乗った人物とは対照的です。
その意味は、『反キリスト』は、ユダヤ人と契約を結ぶまでは平和と安全を約束しているのですが、契約を結んだ後で、その約束が嘘であることがすぐに明らかになるのです。そして、平和が取り去られ、戦争が起こるのです。
大患難時代には三つの戦争が起こります。これが第一の戦争で、大患難時代の中間期に第二の戦争が起こります。そして、大患難時代の最後に第三の戦争が『ハルマゲドンの戦い』なのです。
戦争は、経済不況と食糧不足をもたらします。創造主である神【主】は、悪魔(サタン)が地上を破壊することを許可されますが、依然として歴史を支配しておられる主権者であることを認識しておく必要があります。
(3)第三の封印が解かれる(6:5~6)
第三の封印が解かれ、四つの生き物の第三の生き物が、『来なさい』と次の人物を呼び出します。
ヨハネが見たのは、『黒い馬』です。黒い色は嘆きと悲しみの象徴で、ここでは飢饉がもたらす嘆きです。『これに乗っている者は秤を手に持っていた』とあり、量りもまた、飢饉を象徴しています。世界戦争が起こると、飢饉が襲い、多くの人が餓死するという予表です。
ここでヨハネが聞いた一つの声は、『四つの生き物の真ん中でこう言う』とは、父なる神(第一位格)の声です。『小麦一コイニクスが一デナリ。大麦三コイニクスが一デナリ。』は、飢饉の時の高騰した穀物の価格です。「枡」(コイニクス)の量は約1リットルで、「デナリ」は労働者の日当です。ですから、一日働いても、小麦約1リットルか大麦3リットルしか買えないので、一家の一日の食糧にも満たない状態を示しています。これは、平時の十倍の価格です。
『オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない』は、飢饉に制限を設ける命令だと推察できます。オリーブもぶどうも、根の深い植物なので、穀物が枯れるような飢饉であっても、この二つまで枯れることはないということでしょうか。最低の食物と医薬品が、神によって保障されるということでしょう。
(4)第四の封印が解かれる(6:7~8)
第四の封印が解かれ、四つの生き物の第四の生き物が、『来なさい』と次の人物を呼び出します。
ヨハネが見たのは、『青ざめた馬(青白い馬)(緑がかった青)』です。青白い色は、死の象徴です。『これに乗っている者の名は「死」』とあり、『よみがそれに従っていた』とは、よみ(ハデス)は、旧約聖書の『よみ(陰府)』(シオール)と同じで、死者の魂が留まる場所です。※『蒼ざめた馬』という表記の方がよいとする説もあります。
第四の封印の裁きは、さらに厳しいものとなり、地上の四分の一の人が殺されるのです。例えば、現在七十三億人の人口があるとすれば、約十八億人が死ぬというイメージです。それらの人は、『剣と飢饉と死病と地の獣によって』のいずれかによって殺されるのです。
この四つが一つになっているのは、裁きの厳しさを表すためです。戦争と飢饉で人が死ぬと、死体が放置され疫病が広がります。野獣がそれをさらに広げるのです。
(5)第五の封印が解かれる(6:9~11)
地から天に場面転換します。
これは、大患難時代を通して継続している状況の描写です。ヨハネは、キリストに対する信仰のゆえに殉教の死を遂げた人々の幻を見せられました。彼らは、祭壇の下にいました。これは、旧約時代のいけにえの血が祭壇の土台に注がれたことを関係しています(出エジプト29:12、レビ記4:7参照)。
第四の封印の裁き(死)の直後に殉教者たちが登場します。これらの人々は、地から来た大患難時代の殉教者たちです。大患難時代にも救われる人たちが多く出ますが、殉教の死を遂げる人たちも多いのです。
教会時代のどの時代においても、殉教者たちが出ています。20世紀~21世紀にかけて、最も多くの殉教者たちが出ています。しかし、それ以上の殉教者が出る時代がやって来ます。
殉教者たちは大声で『聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか』と叫びます。迫害者たちがまだ生きていて、地に住んでいるので、天に上げられた殉教者たちは、神の義が行われることを望んでいるのです。
殉教者たちに回答が与えられます。それは、彼らの願いが叶うまでに、今しばらくの時間がかかること、殉教者の数が満ちるまで待つ必要があることが告げられます。つまり、大患難時代は、まだ続くということです。この彼らの願いが成就するのは、キリストの再臨の時に、神は地を裁かれるのです。
大患難時代では、キリストへの信仰の告白は非常に困難なものとなるでしょう。そして、信仰者の大半が、殺されるでしょう。ヨハネの黙示録7章に入ると、白い衣を着た大群衆(殉教者の群れ)が登場します。さらに、ヨハネの黙示録13章に入ると、獣を拝まない者は殺されることになるのです。
大患難時代の殉教者の一人一人に白い衣が与えられますこの白い衣は、義の象徴です。
天において、携挙された聖徒たちは、すでに復活の体を持っていますが、殉教者たちは、まだ復活の体を持っていない状態です。彼らが復活の体を持つのは、大患難時代の最後なのです(ヨハネの黙示録20:4参照)。しかし、白い衣が与えられたということは、なんらかの体を持っているということでしょう。天に住むためにふさわしい一時的な体(中間的な体)と想像できます。これが、再臨の時に、復活の体に置き代わるのでしょう。
(6)第六の封印が解かれる(6:12~17)
第六の封印の裁きでは、場面が再び地上に戻り、その内容は、それまでの裁きとは次元が異なり、神の介入による破壊的な要素が登場するようになります。
これらの天変地異に関する預言を、比ゆ的に解釈してはなりません。その理由は、「比ゆ的解釈の一例は、天での異変を政府の変更と理解したり」「また、地での異変を伝統や共通ルールの破壊と理解する。」こともあるからです。字義通りの解釈を避けたがる理由は、罪に対する神の裁きの厳しさを認めたくないからと考えられます。
創造主である神【主】は、罪人を赦す愛なる神であり、同時に、罪を裁く義なる神でもあります。この理解が大切です。
字義通りの解釈に基づいて、ヨハネの黙示録を読み進めて行きましょう。
ここに書かれた天変地異は、終末預言のことばと調和しています。
①地震(マタイ24:7にあるキリストのことば)
②地震と太陽の暗転(ヨエルの預言ヨエル2:2、10、30~31)
③天は巻物ように巻かれる(イザヤ34:4)
不信仰者たちは、神の裁きの時が来たことを恐れ、神の恵みによりすがるよりも、隠れることを選ぶのです。
『地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠し』と、あらゆる階層の人たちが、洞穴と山の岩間に隠れます。
この時には、地位も、富も、成功も、何の役にも立たないようです。これは、創造主である神【主】に無関心で、地位や富や成功を求める現代人への警告でもあります。
今は『恵みの時』です。その特徴は、神の最終的な裁きがまだ下っていないということで、義人への褒賞も、罪人への裁きも、未完なのです。「今」という時こそ、神の恵みによりすがるチャンスなのです。
彼らは、不思議なことに、死ぬこと以上に、神の裁きを恐れるようになるのです。死を求めても、死は最終的な解決にはならないのです。死んでも、生存の状態が変化するだけなのですから、彼らは、白い御座の裁きを受けることになるのです。
『神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。』
「【主】の日」とは、二十四時間のことではなく、ある期間(時代)のことで、七年間の大患難時代を指しています。この箇所の最後は、『だれがそれに耐えられよう』という問いかけで終わっています。
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