ヨハネの黙示録第7章スタディーノート
ヨハネの黙示録7章『四人の御使い、十四万四千人のユダヤ人、白い衣を着た大群衆』
7:1~3 四人の御使いの幻
7:4 神【主】の印を押された十四万四千人のユダヤ人
7:5~8 イスラエル十二部族
7:9~10 諸国からの大群衆
711~12 御使いたちの礼拝
7:13~14 大患難時代の殉教者
7:15~17 殉教者が受ける祝福
ヨハネの黙示録第7章スタディーノート
(1)四人の御使いの幻(7:1~3)
『その後、…見た』というのは、物事の時間的流れではなく、ヨハネが見せられた幻の順番を示しています。この幻は、神の裁きが迫っていることを示唆して、『地の四方の風』が、つまり大嵐が地上を襲おうとしているのです。
『四人の御使い』は、「地の四隅」に立っているというのは、東西南北の位置に立っているということで、『地の四方の風をしっかりと押さえて』とは、北からも、南からも、東からも、西からも風が吹かないようにしている。つまり、神の裁きが起こるのを押しとどめているのです。
御使いは、自然界を支配する役割を与えられています。『火を支配する権威を持った御使い(黙14:18)』や『水をつかさどる御使い(黙16:5)』の記述があります。
『もう一人の御使い』が、『生ける神の印を持って』とは、印章指輪だと推察できます。『日の昇る方から』とは、東から上って来たという意味です。
『私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。』と、『地にも海にも害を加えることを許された四人の御使いたちに、大声で』叫んで言ったのです。
つまり、神のしもべたちの額に印が押されるまでは、裁きを始めてはならないということです。この額に印を押すというのは、「神の所有権と守り」を意味します。彼らは、伝道のために印を押され、大患難の中で【主】に守られるのです。
(2)神【主】の印を押された十四万四千人のユダヤ人(7:4)
ヨハネが、額に印を押されたユダヤ人の数を聞くと、十四万四千人でした。これは、イスラエル(ヤコブ)の子孫の十二部族からの人数です。
ディスペンセーション神学では、十四万四千人という数を、文字通りの数として考える立場を取ります。
象徴的な数と解釈する人、十二部族を教会と同一視するなどの異なる解釈もあります。また、エホバの証人は、これを救われる人数だと教えていました。信者の数がそれ以上になると、それまでの教理を変更したという歴史があります。これについては、トピックスを参照してください。
十二部族、各部族から一万二千人、合計十四万四千人、これは極めて具体的な数字で、字義通りに解釈することが最も自然だと考えています。しかし、紀元70年のエルサレム崩壊以降、系図が破壊され、ユダヤ人は自分の部族が分からなくなりました。それでも、創造主である神【主】はご存じであり、その時に、必要な人たちを呼び集められるのです。
この十四万四千人は、神の守りによって、神のしもべとして世界宣教に出て、大患難時代を生き延びるユダヤ人です。
彼らの宣教によって救われるユダヤ人は、それ以上起こされますが、殉教の死を遂げることになるのです。
(3)イスラエル十二部族(7:5~8)
ユダは、ヤコブの4番目の息子で、母はレアです。
ルベンは、ヤコブの長男で、母はレアです。
ガドは、ヤコブの7番目の息子で、母はジルパ(レアの女奴隷)です。
アセルは、ヤコブの8番目の息子で、母はジルパです。
ナフタリは、ヤコブの5番目の息子で、母はビルハ(ラケルの女奴隷)です。
マナセは、エジプトで生まれたヨセフの長子です。
シメオンは、ヤコブの2番目の息子で、母はレアです。
レビは、ヤコブの3番目の息子で、母はレアです。
イッサカルは、ヤコブの9番目の息子で、母はレアです。
ゼブルンは、ヤコブの10番目の息子で、母はレアです(6番目の息子)。
ヨセフは、ヤコブの11番目の息子で、母はラケルです(最初の息子)。
ベニヤミンは、ヤコブの12番目の息子で、母はラケルです(2番目の息子)。
(4)諸国からの大群衆(7:9~10)
ヨハネが見せられた次の幻は、十四万四千人のユダヤ人の伝道によって救われる大群衆です。『すべての国民、部族、民族、言語から』救われた人たちです。この大群衆は、数えきれないほどの人数です。これには、十四万四千人以外のユダヤ人が含まれます。
この大群衆は、『白い衣を身にまとい』とあるのは、信仰によって義とされたこと、救われていることの象徴です。ヨハネの黙示録の中では、『白い衣』は「救い」の象徴です。(ヨハネの黙示録6:11参照)
『手になつめ椰子の枝を持っていた』とあるのは、勝利者となったことの象徴です。
『御座の前と子羊の前に立ち』とありますが、御座の前とは、父なる神の御前であり、子羊の前とは、子なる神の御前です。
『救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。』と、大群衆は叫びます。御座に着いておられる私たちの神とは、父なる神のことで、子羊とは、子なる神のことです。彼らは、救いは父なる神(第一位格)と子なる神(第二位格)によって与えられたと大声で証言しているのです。彼らは、ヨハネの黙示録6:9の殉教者たちと同じグループの人々です。彼らが、大患難時代の殉教者であることは、ヨハネの黙示録7:13~14になってからわかるのです。
(5)御使い(天使)たちの礼拝(7:11~12)
天にいる御使いたちは全員、『御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていた』と記されています。御座は父なる神がおられる場で、長老たちは、二十四人の長老たちを意味し、天に挙げられた普遍的教会です。
『四つの生き物』は、封印を解いた御使いたちです。彼らも御座の前にひれ伏し、神を礼拝します。ヨハネの黙示録5章では、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊を礼拝しています。ここでは、その周りに立っている御使いたちが礼拝に参加しています。ヨハネの黙示録5:12にある七つの言葉は、ヨハネの黙示録7:12の七つの言葉に似ています。
創造主である神【主】は、大いなる御方です。ヨハネの黙示録7:9~12は、この大群衆が誰であるかを示すための導入部分なのです。
(6)大患難時代の殉教者(7:13~14)
『この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか』と、長老の一人が質問します。この質問から、長老と大群衆とは別のグループの人たちであることが分かります。二十四人の長老たちは携挙された普遍的教会、白い衣を着た大群衆は、それ以外の聖徒たちです。
これはユダヤ的教授法の一つで、ラビは、生徒が知らない質問を投げかけ、生徒は、答えを求め、ラビは、答えを与えるという流れになっているのです。
ヨハネは、投げかけられた質問に答えることができず、『私の主よ、あなたこそご存じです』と反応します。これは、自らの無知を告白し、回答を求めている言葉なのです。信仰者が、試練の時に、『私の主よ、あなたこそご存じです』と言える人は幸いです。
長老がヨハネに『この人たちは大きな患難を経てきた者たちで』と教えます。『大きな患難』とは、大患難時代のことを意味しています。これは、マタイ24:21でイエスが預言した時代です。
『24:21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。』
ある人たちは、この大群衆はすべての時代の聖徒たちであると解釈しますが、『大きな患難を経てきた者たち』を字義通りに解釈すれば、大患難時代の聖徒と理解するのが合理的なのです。
『その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです』とありますが、衣を血で洗った場合、通常は白くなりません。これは、霊的純潔を示す比ゆ的言葉なのです(レビ記17:14、ヘブル書9:22、使徒の働き20:28参照)。
大患難時代においても、多くの人たちが救われます。それは、十四万四千人の伝道によって世界規模の信仰回帰が起こりますが、その信仰のために多くの殉教者が出ます。
(7)殉教者が受ける祝福(7:15~17)
殉教者は、七つの祝福が考えられます。
①御前の祝福
彼らは、かつては、反キリストの前に立たされていましたが、『神の御座の前』に出ることになるのです。
②奉仕の祝福
『聖所で昼も夜も、神に仕えている』、これは、天に昼と夜があるという意味ではなく、永続した奉仕が与えられるということです。天は休息の場所であると同時に、奉仕の場所でもあります。ここでの聖所とは、神の臨在を表現する言葉です。
③交わりの祝福
『御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる』、幕屋を張るとは、彼らの内に宿るということです。
④満たしの祝福
『彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、』とあるのは、大患難時代では、飢えと渇きに襲われていました。その苦しみがなくなるということです。
⑤安全の祝福
『太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない』、その理由は、神の臨在が彼らをおおうからです。イザヤ49:10、詩121:5~6が背景にあります。
⑥導きの祝福
『御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。』ここは、詩23編が背景にあり、良き羊飼いの例えが背景にあるのです(ヨハネ10章)。
⑦よろこびの祝福
『また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。』、彼らが、大患難時代に流した涙は、神によってぬぐい取られるのです。
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