ヨハネの黙示録第22章スタディーノート
ヨハネの黙示録22章『再臨の希望、ヨハネの礼拝、この書の預言を宣告せよとの命令、報いの確実性、永遠のキリスト、御霊と花嫁による招き、最後の警告、祝祷』
22:1~2 いのちの水の川
22:2 いのちの木
22:3~4 都の住民
22:5 夜が巡ってこない都
22:6~7 再臨の希望
22:8~9 ヨハネによる礼拝
22:10~11 この書の預言を宣告せよとの命令
22:12 報いの確実性
22:13~16 永遠のキリスト
22:17 御霊と花嫁による招き
22:18~20 最後の警告…加えても省いてもダメ
22:21 祝祷
ヨハネの黙示録第22章スタディーノート
※この章では、永遠の御国である新天新地について記されています。
(1)聖なる都エルサレムの特徴(後半)
⑧いのちの水の川(22:1~2前半)
『水晶のように輝く、いのちの水の川(1節)』とは、神と子羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れています。この川は、新しいエルサレムにおける霊的祝福の象徴であり、字義通りに、実際の川が流れていると考えます。両岸にいのちの木がある幅の狭い川のようなイメージです。

(注)これは、千年王国において現れる二つの川(エゼキエル47:1、ゼカリヤ14:8)とは、別のもので、混同しないようにしましょう。
『神と子羊の御座から出て(1節)』とあるのは、神ご自身が、この川の源です。その御座に神(第一位格)と子羊(第二位格)が共に御座におられるのです。この表現は、キリスト(第二位格)の神性を証明しています。
この御座は、千年王国における御座とは異なります。千年王国の御座は、神の代理人(王の王)として統治するためのものです。新しいエルサレムでは、キリストの統治形態が変化します。
⑨いのちの木(22:2後半)
『いのちの木(2節)』については、植物の園エデンにあったもの(創世記2:9)です。アダムはそれを見ていたはずですが、それを選ばずに、『善悪の知識の木』に魅了されました。アダムがその実を喰らい罪を犯した時、死が被造世界に入り、アダムとエバは、エデンの園から追放されました。この新しいエルサレムで、『いのちの木』が再登場するのです。
いのちの木の特長は、都の大通りの中央を流れるいのちの川の両岸にあり、その木は、豊かな実を実らせます。毎月が収穫期で、十二種類の異なった実がなるのです。夜が来ない新しいエルサレムでは、太陽と月の運行に依存しない新しい暦が登場するのでしょう。
『その木の葉は諸国の民を癒やした(2節)』とあるのは、この葉が病気の治療に用いられるということではありません。そもそも、このいのちの木がある都には、病気も死もないのです。ここには、「セラペイア(ギリシャ語)」という名詞が使われていて、英語の「セラピー」の語源にもなっています。それを合わせて考えると、その葉には「病気にかからないような予防的な力がある」という意味です。病人が出る余地がないのです。
いのちの木の祝福は、食べる喜びが与えられるということです。そこにいるのは、栄光の体の聖徒ですから、これは、肉体の生存のための食事ではありません。その本質は、満ち足りた生活が用意されていると言うことです。この木の葉は、満ち足りた生活を保証してくれるのです。
⑩都の住民(22:3~4)
白い御座の裁きで、罪の清算が完了したので、アダムとエバがもたらした呪いが、すべて取り去られます。神は、永遠に罪を裁く必要がなくなるのです。あらゆる時代の聖徒たちが、その都の住民となり、神と都の住民たちの間に、継続的な交わりがあるのです。
訳語の比較をしてみましょう。
『神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。(新改訳2017)』
『神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る(新改訳第三版)』
『神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである(口語訳)』
原文では、『神に仕え』は「彼に仕え」(単数形)で、神と子羊の代名詞は、単数形の「彼」です。さらに、『御顔』は、原文では「彼の顔」であり、これは、三位一体の教理を証明する強力な証拠なのです。
『10:30 わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30新改訳2017)』
『13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(2コリント13:13新改訳2017)』
三位一体は、言葉としては、聖書に記されていませんが、存在は一つ、働きの位格が三つという表現が多く記されています。
『彼らの額には神の御名が記されている(4節)』とあるのは、フィラデルフィアにある教会への約束(ヨハネの黙示録3:12)が成就することです。新しいエルサレムの住民たち(あらゆる時代の聖徒たち)は、神が所有する宝の民になるのです。彼らは、神に仕え、神を礼拝するのです。
⑪夜が巡ってこない都(22:5)
その都には夜がありません。罪から来た呪いである闇が取り去られ、太陽や月が取り去られ、創造主である神【主】ご自身が都の光源となるのです。贖われた者たち(あらゆる時代の聖徒たち)は、シャカイナグローリーに照らされて祝された生活を送るのです。
訳文の比較してみましょう。
『彼らは世々限りなく王として治める(新改訳2017)』
『彼らは永遠に王である(新改訳第三版)』
『彼らは世々限りなく統治するからである(新共同訳)』
『彼らは世々限りなく支配する(口語訳)』
この都の住民は、なんらかの役割を与えられるのでしょう。その一つのヒントは、1コリント6:2~3にあります。
『6:2 聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
6:3 あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。(1コリント6:2新改訳2017)』
21世紀では、御使いの方が人間よりも上(【主】の直系)ですが、その立場が逆転するようです。
『もはや夜がない(5節)』という新しいエルサレムの11番目の特長は、1番目の特長(シャカイナグローリー)と似ています。
(2)再臨の希望(22:6~7)
御使いは、ヨハネが書いてきた内容は、『これらのことばは真実であり、信頼できます。』と言います。それは、情報の源が、『忠実また真実(ヨハネの黙示録19:11)』と呼ばれる神だからなのです。その神が、御使いを遣わして、ヨハネに啓示を与えたのです。これまでにも、預言者たちに啓示を与えてきた神ご自身が、ヨハネにこれらの啓示を与えたのです。
父なる神 → 子なる神 → 御使い → ヨハネ → 読者たちと啓示がなされています。
この啓示の内容は、『すぐに起こるべきこと(6節)』とあるのは、神のしもべたちは、常に警戒している必要があること、さらに、この啓示によって苦難に打ち勝つ力を得ることができます。
『見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。(7節)』とあるのは、ヨハネの黙示録1:3で、この書を読み、その内容を心に留める者に祝福が約束されています。
『1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。(ヨハネの黙示録1:3新改訳2017)』
この祝福の約束が、ここで、再度くり返されています。
『この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである(7節新改訳第三版)』とあるのは、「堅く守る」とは、「心に留め、見張っている状態」を意味します。そして、この約束の成就は、キリストの再臨によって保証されているのです。
祝福の約束が明確に書かれているのは、ヨハネの黙示録だけです。そういう意味で、ヨハネの黙示録は特別な書であり、聖書の啓示全体を要約した書なのです。
(3)ヨハネによる礼拝(22:8~9)
御使い(天使)は、人間の目には畏怖の念を抱かせる栄光に富んだ存在です。それは、イエス・キリストが復活された時の情景(マタイ28:2~4)が物語っています。
『28:2 すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
28:3 その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
28:4 その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。(マタイ28:2~4新改訳2017)』
ヨハネの黙示録22:8で、ヨハネは、ひれ伏して御使いを拝もうとしました。御使いは、ヨハネに驚くべき啓示を与えてくれたので、そのような応答をしたのですが、これは間違っています。しかし、思わず御使いを礼拝しようとしたヨハネの気持ちは、人間としては理解できます。
『「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。」(9節)』と、御使いはヨハネの礼拝を制止しています。神以外の人物や物を拝むのは、偶像礼拝であり、天使礼拝もまた偶像礼拝なのです。
『2:18 自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、
2:19 かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。(コロサイ2:18~19新改訳2017)』
御使いの言葉は、ヨハネが記録した内容が真実なものであることを認証しています。御使い(天使)も人間たちと同じく、神に仕えるものです。神だけを礼拝する原点を確認しましょう。
(注)(ILL)カトリック教会のマリア礼拝、聖人の存在があります。これは、【主】の御心に沿わないものです。ヨーロッパに福音が伝わった時、彼らは、多神教でした。教会から伝えられる内容を信仰にしたのですが、土着信仰の多神教のニーズを満たすために多神教的な逸脱が起きた歴史があります。
(4)この書の預言を宣告せよとの命令(22:10~11)
ダニエルは、預言のことばを封じておくように命じられました。
『12:4 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと捜し回る。」(ダニエル12:4新改訳2017)』
ダニエル書は、長期にわたる出来事を預言した膨大な書です。しかし、ダニエル自身が、自分の書いていることを十分に理解できませんでした。それで、終わりの時が来るまで、そのことばに封印をするように、神は命じたのです。
そして、ダニエル書の預言は、ヨハネの黙示録によって明らかになりました。ですから、ヨハネの黙示録の預言は、『封じてはいけない』と言われたのです。この預言が成就する時が近づいているのです。
キリストの再臨に続いて、人々の運命が二分され、確定します。ヨハネの黙示録の内容を受け入れた人は、『正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。(11節)』とあるように、ますます聖潔に進みます。
しかし、汚れた者たちはヨハネの黙示録を拒否し、『不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。(11節)』その汚れは、さらにひどくなるのです。
これは、ヨハネの黙示録の読者に対する警告です。この預言の成就の前に、自分にとってより良い選択をする必要があります。
(5)報いの確実性(22:12)
キリストは、罪人をそのわざに応じて裁くために帰って来られます(再臨)。不信仰者たちは、『白い御座の裁き(ヨハネの黙示録20:11~15)』を通過します。
一方、聖徒たちは、その前に携挙(空中携挙)をされ、「祝福のための裁き」を通過するのです。子羊の血潮によって贖われた者たちは、その信仰によって、罪の裁きから免れます。聖徒たちに与えられる褒賞は、信仰者になってからの行為に基づいて決まるのです。『キリストの裁きの座(1コリント3:11~15、2コリント5:10)』は、聖徒に対する報償の場なのです。
(6)永遠のキリスト(22:13~16)
『初めであり、終わりである』とは、旧約聖書での表現です。
『44:6 イスラエルの王である【主】、これを贖う方、万軍の【主】はこう言われる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。(イザヤ44:6新改訳2017)』
キリストは、永遠の昔から永遠の未来に至るまで存在する御方です。さらにキリストは、全能なる神なのです。この神性宣言は、聖徒たちに励ましと確信を与えるものです。これにより、ヨハネの黙示録の内容は、完全に信頼できるものです。創造主である神【主】は、私たちを完全に救うことのできる御方なのです。
『自分の衣を洗う者たちは幸い(14節)』とあるのは、罪の性質が子羊の血潮によって贖われた者だけが、新しいエルサレムに住むことができるのです。
『1:18 ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18~19新改訳2017)』
贖われた者(聖徒)は、キリストの衣を着ることにより、罪から完全に清められ、義とされています。彼らは、新しい都の住民となり、その都で永遠に生き、いのちの木の実を食べるのです。
『犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。(15節)』とあるのは、贖われていない者(不信仰者)たちの悲惨な状態が描写されています。彼らは、絶対にその都に入ることを許されず、『燃える火の池』で永遠に苦しむのです。
『わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。(16節)』と、イエスは、ヨハネに啓示を与えたのはご自分であると宣言します。
『1:1 イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。(ヨハネの黙示録1:1新改訳2017)』
イエスから与えられた啓示であるがゆえに、ヨハネの黙示録は信頼できるのです。
『わたしはダビデの根、また子孫、(16節)』とあるのは、イエスは、人間性としてはダビデの子孫として誕生したということです。これは、メシアであるイエス・キリストの正統な王としての系図を示しています。
『輝く明けの明星である。(16節)』とあるのは、イエスの神性を表しています。明けの明星が輝くように、イエスはシャカイナ・グローリーで輝くのです。
『明けの明星』は、民数記24:17との関連でメシアを指すタイトルです。
『24:17 私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみを、すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。(民数記24:17新改訳2017)』
さらに、『明けの明星』は、霊的暗黒時代の終わりが近いことを示しています。
(7)御霊と花嫁による招き(22:17)
『来てください(17節)』なのか、「来なさい」なのかについて考えると、「来てください」なら、キリストに向けた招きになり、「来なさい」なら、この書を読む者への招きになります。ここの文脈上は、『来なさい』と訳すのがよいと考えます。
これは、罪人(不信仰者)に差し出された「永遠のいのちへの招き」なのです。
『御霊と花嫁(教会)(17節)』が協力して、罪人を招いています。
招きの言葉を伝えるのは、教会の役割であり、その言葉を聞いた人を悔い改めに導くのは、御霊の役割です。
『渇く者』とは、罪人(不信仰者)のことです。
聖なる都にある『いのちの水』を飲めるのは、キリストを信じた者だけなのです。人間は、無代価で救いを受けることができるのです。創造主である神【主】は、聖書の最後に至るまで、罪人(不信仰者)を招いているのです。
(8)最後の警告…加えても省いてもダメ(22:18~20)
イエスからの警告の言葉が、二つ伝えられています。紀元1世紀の時代には、著者が自分の書の最後に警告文を載せることがよくありました。それは、写本を作る書記への警告です。
ヨハネの黙示録における第一の警告は、ヨハネの黙示録の預言に何か『つけ加えること』を禁止するものです。そのような人は、『この書に書かれている災害を加えられる』との警告です。神の預言に余計なものをつけ加えることは、自らの不信仰を証明することです。
第二の警告は、この書から『何かを取り除く』ことの禁止です。そのような人は、『いのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる』と警告されています。不信仰者は、預言の言葉を取り除くことによって自らの不信仰を表明しているのです。
この警告は、一義的にはヨハネの黙示録の預言に手を入れてはならないというものです。ヨハネの黙示録が聖書全体の預言のまとめになっていることを考えると、聖書そのものに手を加えることを禁止したものであるとも考えられます。
異端的宗教の特徴は、聖書以外に、自分たちの聖典を所有していることです。この警告は、一度救われた者でも、救いを失う可能性があるということではありません。
真に救われている者は、聖書のすべてを神のことばと受け止めることができます。
この警告は、自由主義神学者への警告にもなっています。
『これらのことを証しする方(20節)』とは、主イエスご自身が、証人になられ、『しかり、わたしはすぐに来る』と宣言されたのです。ですから、携挙や再臨は、いつ起こってもおかしくないのです。
それを待ち望む聖徒たちは『アーメン。主イエスよ、来てください(20節)』と応答します。この『来てください』は、アラム語の「マラナ・タ」から来ています。
『16:22 主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。(1コリント16:22新改訳2017)』
『16:22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。(1コリント16:22新共同訳)』
これは、新約時代の聖徒たちが使用していたあいさつの言葉です。
キリストの携挙や再臨は、あらゆる時代の聖徒たちの希望です。
(9)祝祷(22:21)
ヨハネの黙示録は、祝祷をもって終わっています。『主イエスの恵み(21節)』とは、無代価で得られる『永遠のいのち』への招きなのです。




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