人間は愛する者を容赦しない マキャヴェッリ
『わたしは、愛されるよりも怖れられるほうが、君主にとって安全な選択であると言いたい。なぜなら、人間には、怖れている者よりも愛している者のほうを容赦なく傷つけるという性向があるからだ。 マキャヴェッリ『君主論』(講談社)』
「愛」とは何なのでしょうか?
それは、日本語に翻訳するのに、非常に難しい概念だったと教えてもらったことがあります。
先人は、「愛(LOVE)」を「お大切」と翻訳したそうです。
愛する対象は、大切な存在という説明は、シックリ来ますよね。
でも、「愛」と言っても、ケースによっては「執着」であったり「支配」であったり、本来の概念から逸脱が見られるケースもあります。
人間の生育そのものに、何らかの歪みがあると、その傾向が強くなります。
「愛しているなら、私の言う事は絶対だ」などと、暴君のように振る舞うパートナーもいます。
それは、「自己愛性人格障害」と言うような傾向を含んでいるのです。
「俺が、俺が」という身勝手な振る舞いは、男性だけではありません。
マキャベリは、君主論の中で、冒頭のフレーズを取り上げています。
「好き」の対義語は「嫌い」と言われます。
でも、「愛」ならばどうでしょう?
それは、「無関心」です。
相手のことが、気になったり、時には、憎たらしかったり、大っ嫌いと感じたりするコトがあるでしょう。
それは、「関心」があるから起きる心の状態なのです。
全くの無関心ならば、そのような心の動きにはならないですね。
それにしても、このフレーズの君主は、臆病で、慎重な傾向を感じます。
でも、愛していると思っていても、お互いに好意があることを良いことにして、甘えるなどの結果、傷つけてしまうというのは、私にも、理解できます。
それよりは、恐い存在を、無関心に観察された方が、冷徹のような態度で、臨めるのかも知れません。
統治者は、全員には良い顔ができません。
誰かを利すれば、誰かが悲しむなどの決断も、時には、しなければならないのでしょう。
その様な時に、民衆からどのようなアプローチを受けるかも、君主としては考えておく必要があるようですね。




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