エルサレム会議(前半) 使徒の働き15:1-12
『15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 こうして彼らは教会の人々に送り出され、フェニキアとサマリアを通って行った。道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。
15:5 ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
15:7 多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
15:8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
15:9 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
15:11 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」
15:12 すると、全会衆は静かになった。そして、バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話すのに、耳を傾けた。 使徒の働き15:1-12新改訳2017』
人類の歴史を振り返ってみると、ユダヤ主義者と反ユダヤ主義者の対立が浮かび上がるように感じています。
使徒の働きの時代には、その軋轢がガチンコで繰り広げられていたのですね。
「モーセの慣習」とあるのは、「ユダヤ教の律法に従うように」との要求です。
状況を整理してみましょう。
ユダヤ教の立場では、イエス・キリストをメシアと受け入れていない状況です。ですから、本当のメシアが現れるまで、「モーセの慣習」に沿って、生活をするようにというスタンスだったのです。そこには、律法と預言者、さらに、口伝律法まで、付いてきたのです。
一方、弟子のパウロたちは、イエス・キリストを復活のメシアだと信じ受け入れている立場です。ですから、基本的には、イエスの十字架、死、葬り、三日目の復活により、完成された贖いと受け入れることで、律法から自由(守るのも自由、守らないのも自由)にされていたのです。この時には、ユダヤ人だけの救いにとどまらず、異邦人へと福音宣教は進んでいたのです。使徒の働き11:18では、エルサレム教会として、異邦人コルネリオの割礼無しでの救いを承認しています。
しかし、当時のユダヤ教界隈では、苦々しく思っている怒りが燻り続けていました。
そこで、「ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」」という教えをするために、パリサイ派の遠征隊が、はるばる乗り込んできたという訳です。
これが、激しい論争の発端になりました。
そこで、「パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。」という事で、エルサレム会議が開催されたのです。
パウロたちは、エルサレム教会に着き、「教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられ…、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告し…」ました。
ここでも、「パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」」と言う主張がなされました。
つまり、律法と信仰の関係を理解する様々な考え方があったのです。
これらの論陣の中心は、パリサイ派でした。
会議では、ペテロが立って、「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」と語りました。
救いの原則は、ユダヤ人も異邦人も同じであると主張します。つまり、「信仰によって、主イエスの恵みによって救われる」のは、異邦人もユダヤ人も同じという事です。
これを聞いた全会衆は、反論の余地がなくなり、静かになりました。
そうすると、バルナバとパウロが、伝道旅行での出来事「しるしと不思議」について語り出したのです。
今の時代でも、この「信仰によって、主イエスの恵みによって救われる」という原則は変わりません。
究極的な話をすると、信仰の原則は、「信仰の表明」です。
それは、福音の三要素「主イエス・キリストが私の罪を負い十字架の贖いで死なれたこと、葬られたこと、三日目に復活されたこと」を信じることです。
それを信じた瞬間に、聖霊(第三位格)の内住(聖霊のバプテスマ)が起こります。
これをクリアすれば、天国行き確定です。
信仰告白や証言、洗礼などによって、救われるのではないのです。でも、これらを否定するものではありません。信仰の表明や証言は、信仰や福音の共有で、コミュニティーとしては大切な要素です。
また、地方教会で行われる洗礼式や聖餐式なども、信仰を醸成させるためには、意義深いものです。
これらの筋道を冷静に考えていく必要があると考えています。






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