一事が万事 渋沢栄一

『たとえ自分はもっと大きなことをする人間だと自信していても、その大きなことは片々たる小さなことの集積したものであるから、どんな場合も軽蔑することなく、勤勉に忠実に誠意を籠めてその一事を完全にし遂げようとしなければならぬ。 渋沢栄一『論語と算盤』(国書刊行会)』

今や日本の一万円札の顔になった渋沢栄一氏のフレーズです。

百姓から武士に取り立てられたといえば、豊臣秀吉を思い出します。

いつの時代にも、優秀な人材と、それを見出す目、そして、その人材を取り立てて育てる人がいるのだと感心します。

渋沢氏は「5歳の頃より父から漢籍の手ほどきを受け、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、『論語』を始め四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は元川越藩剣術師範で近隣に在郷の大川平兵衛より神道無念流を学んだ」などと記されているので、武士になる為の基礎を身につける才能を有していたのでしょう。

その活躍はめざましく「日本資本主義の父」と評されるようになりました。

それらにより、一万円札の顔に採用されたというのです。

多くの企業に関わったのは、お互いに「Win-Win」の関係性を持てたからだろうと評する経営者の方々も見えます。

確かに、カラダは一つしかないので、どこまで、経営に関与していたのかは差だけではありませんね。

「勤勉に忠実に誠意を籠めて」その一事に向かったというのは、事実でしょう。

彼には、正妻と妾を同居させたり、17人以上の子どもがいると聞き、思わず唸ってしまいました。

ですから、新札は、結婚式の祝儀には不向きではないかと言われていて、その論議はいまだに結論を得ていないようです。

「家庭が円満ならば、子孫繁栄のお守りとしてアリ」という意見もあれば、「旧札の新券を残しておかなければ」という話しまであり、何かと話題は尽きないですね。

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体:澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の実業家[1]・慈善家、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
江戸時代末期に百姓[2](豪農身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり[3]、明治政府で官吏となる。民部省を経て直属の上司である井上馨(大蔵大輔)の下で、吉田清成(大蔵少輔)らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。
井上馨と共に退官後は実業界に転じて実業家の肥田理吉らと日本経済の在り方を論じ[4]、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社[5] にもおよび、「日本資本主義の父」[6][7][8][9] 、五代友厚とともに「東の渋沢、西の五代」[10][11][12]と並び称された。
同時に、東京養育院、社会福祉協議会等の福祉事業、東京慈恵会、聖路加国際病院等の医療事業、東京大学文学部新聞研究室(現:東京大学大学院情報学環教育部)、商法講習所(現:一橋大学)、大倉商業学校(現:東京経済大学)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現:拓殖大学)の設立、二松學舍(現:二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また、孔子とその門人の言行録『論語』を基にした道徳経済合一論を論じた[13]。

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