二つの愛すべき名 内村鑑三

『私どもにとりまして愛すべき名としては、世界にただ二つあるだけであります。その一つはイエスでありまして、他の一つは日本であります。 内村鑑三『内村鑑三思想選書』(羽田書店)』

内村鑑三氏は、信仰者としては、お手本にしたい人物の一人です。

その彼がストレートに語ったフレーズです。

彼は、日本という国を愛して、多くの貢献をしています。

また、同時に、信仰者として、創造主である神【主】を愛した人でもあります。

これは、彼の中では両立していたのでしょうね。

でも、周囲からのプレッシャーは、どちらかを選べというモノであったのは想像に難くありません。

そして、組織よりも実態に目を向けていたように感じます。

それが、無教会派などという批判の的にもなったようです。

優先順位を考えれば、個人単位の信仰、そして、コミュニティーとしての地方教会という順になるのです。

ただし、ペテロが、主イエスから託されたのは「わが羊を養え」と言われた真意を考えてみると、地方教会の会員信者は、リーダーの所有ではなく、あくまでも、「【主】のもの」という原則があるのです。

内村鑑三氏の足跡をみると、【主】の原則を採用したのだと感じます。

彼は、多くの集会や交わりを大切にしていたのですからね。

「創造主である神【主】との直接の交わり」「個の信仰の確立」「霊的な自立」などは、個人岡大として取り組む範囲だと考えています。

今は、選別が難しいほど、聖書にまつわる多くの資料が公開されています。

【主】がより良いところへ導かれますように。

内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2年2月13日〉[1] – 1930年〈昭和5年〉3月28日[2])は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。『代表的日本人』の著者でもある。(中略)
不敬事件
第一高等中学校(1894年に旧制第一高等学校へ改名)本館 →詳細は「内村鑑三不敬事件」を参照
明治23年(1890年)から、植村正久の一番町教会の長老・木村駿吉の推薦により、第一高等中学校(現・東京大学教養学部、千葉大学医学部、薬学部)の嘱託教員となった[13]。
教育敕語
明治24年(1891年)1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。
事態の悪化に驚いた木下広次校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて、改めて内村に敬礼を依頼した。内村はそれに同意したが、悪性の流感にかかっており本人が行けなかったので、代わりに木村駿吉が行った。しかし、マスコミがこの事件を大きく取り上げ、「内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝した。そうして、事件はキリスト教と国体の問題へ進展した。
内村は悪性の流感により病床にあり、意識不明の状態だったが、2月に本人に知らない間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、1月31日には本人の名前で辞職願いが出されて、2月3日付けで依願解嘱された。これがいわゆる「内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」である。

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