祈りと教えについて 箴言28:9

『28:9 耳を背けておしえを聞かない者は、その祈りさえ忌み嫌われる。 箴言28:9新改訳2017』

「祈り」とは何でしょうか?

幼い頃、「お願い事は、お祈りすると何でも聞き届けられる」と教えられたようなイメージを持っています。

しかし、人生の中で、願い事が聞かれたと実感することが「幾度有ったか?」あまりよく覚えていません。

教えられた事とは、少し違うという感覚が残っています。

人間は、「万能感」を求める傾向があります。

目の前で、イリュージョンのように、奇跡のような光景が起きれば、目も心も奪われます。

しかし、有限な人間界では、タネも仕掛けもあると言う事が前提です。

聖書の福音書や使徒の働きに記述されている奇跡の数々は、人間的なものではないと考えた方が合理的だという理解に至りました。

どうやら、人間の時間感覚と違うのです。

それらは、創造主である神【主】が、使徒たちを通じて、その正しい存在を示すため、またその証言の信憑性を高めるために起きたという事のようです。

時代背景を考えると、使徒の働きの時代には、まだ、聖書66巻の正典は未完成でした。それを補完するための「シルシ」として行われたと理解する考え方に、私は立っています。

聖書の正典化は「旧約はユダヤ教のヤムニア会議(1世紀末)頃、新約は4世紀末(カルタゴ会議等)に27巻として確立」という一般的な認識があります。

旧約聖書は39巻という共通認識は、紀元前4世紀頃にあったという伝承もあります。
参照:https://seishonyumon.com/question/423/

ただ、どれだけ超自然的な「シルシ」を見せられても、信じる人は限られます。

つまるところ、「信じるか?信じないか?」と言う要素に帰結するのですね。

創造主である神【主】にお祈りするというのには、スゴく温度差も範囲の広さもあると感じています。

そもそも、契約が成立しているかが、カギです。信仰者は、創造主である神【主】が用意された十字架による贖いに、信仰で応答することで、永遠のいのちの契約が成立するのです。

そして、「祈りによる交わり」ができるのです。

しかし、祈りは願い事の羅列ではありません。【主】に対する感謝や讃美を忘れないようにしたいものです。

的を外していないか? 自分の欲だけ開示していないか? これらを確認する必要もありますね。

私の人生を振り返ってみると、願い事よりも、はるかに超えた創造主である神【主】の祝福を実感することができています。

今でも、祈りも願いもしますが、【主】の御心を待ち望むというスタンスを大切にしたいと考えています。
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