三顧の礼 中国の故事成語
『◇三顧(さんこ)の礼 (中国の故事成語)
中国南北朝時代、南朝梁(りゅう)の昭明太子によって編纂された詩文集『文選』の「出師表(すいしのひょう)」に由来する。後漢末期、劉備は、 漢王朝再興という念願を果たすため、優秀な参謀を得たいと願っていた。ある日、「荊州(けいしゅう)に伏竜と鳳雛(ほうすう)あり。伏竜とは、隆中(りゅうちゅう)で生活している諸葛孔明」と聞き、会いに行った。しかし、1度目、2度目、孔明は留守で会えず、3度目でようやく会うことができ、孔明は劉備の名参謀となった。このことから三顧の礼とは「礼を尽くして賢人を招くこと」を意味する。』
三国志の中でも有名な諸葛孔明にまつわる故事成語です。
今でも、逸材を発掘する人は、「三顧の礼」を尽くして、獲得しようとしているようです。
しかし、現実的にはこのケースのようには、ウマく行くとは限りません。
そもそも、人間同士ですから、相性もあります。
お互いに良い話になるのであれば、良い流れが見出せることでしょう。
このフレーズのストーリーで、「友人の徐庶が劉備の下に出入りして、襄陽の古隆中に住む諸葛亮のことを劉備に話し」、「人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだ」とあります。
しかし、「徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言った」。
「劉備は3度諸葛亮の家に足を運び(207年冬~208年春)、やっと迎えることができた」
一般的には、知り合いに連れてきてと頼むものです。しかし、「友人の徐庶」は、諸葛孔明を熟知していたようです。それを聞いた劉備は三度、諸葛亮の家に足を運んだと言うステップが最も大切だと感じます。
今、大リーグで活躍している大谷さんのように、超大物だったのでしょうね。
時には、リーダー自ら出向いて、何度も、交渉をするという、根気、忍耐、謙遜が求められると言う教訓だと受けとめました。時代が変わっても、人間が生きている限り、大切な要素ですね。
諸葛 亮(しょかつ りょう、拼音: Zhūgě Liàng ジューガー・リャン、181年 – 234年8月末)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・武将(軍師)。亮は諱で字は孔明(こうめい)。
司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠がある。
妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として叔父の豫章太守諸葛玄、同母兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、同母弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏の武将として仕えた諸葛誕などがいる。(中略)
諸葛亮は前述のように晴耕雨読の日々を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、襄陽の古隆中に住む諸葛亮のことを劉備に話した[注釈 1]。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び(207年冬~208年春)、やっと迎えることができた[注釈 2]。これが「三顧の礼」である。この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を故事に習って示し、「曹操・孫権と当たることを避けて、まずは荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだ」と勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識を認めて左将軍掾(主任)に起用し、諸葛亮も劉備に仕えることを承諾した。これを「孔明の出廬」という。(以下略)
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